聖徳太子が未来を予言していたのか?~「予言者」にされた日本の偉人たち

中世日本では、極めて多神教的な神仏習合の信仰が栄える一方で一神教としての側面もある鎌倉新仏教諸派も勃興し、仏教の世界は、実に様々な信仰が入り乱れていた。

そうした時代の仏教信仰には、実は意外な一側面がある。過去の時代の偉大な仏教関係者たちが密かに残したとされる様々な予言書や、その内容に尾ヒレの付いた様々な噂話が飛び交っていたのであった。

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中でも特に有名なのが、『聖徳太子未来記』である。これは、聖徳太子が書いたとされる種々の予言書の総称で、鎌倉時代頃に偶然見つかったとされる記録群である。
鎌倉〜室町時代初期の様々な書物でも、『聖徳太子未来記』の存在や内容に言及するものが多い。

しかしながら実際には、この『聖徳太子未来記』は、歴史的人物としての聖徳太子(=厩戸王)が残したものであるとは考えられない。
中世日本では仏教諸派の共通の聖人としての聖徳太子崇敬が盛んであり、彼に関する様々な聖人伝が著された。時には諸宗派の開祖や中興の祖の導き手(例えば、これは鎌倉新仏教諸派の開祖の伝説によくあるが、彼らの夢に出てお告げをしたとされる)として、そうした人々が聖人化されていく際の引き立て役にもされた。

各種の『聖徳太子未来記』はそうした中で創られたとみられるが、これらの内容に共通するのは「未来の時代に異国に侵攻される」「戦によって国が荒廃する」「戦によって政権が交代する」などと解釈される(=解釈できるように書かれた)くだりである。

この時代は、国内での戦いや他国からの攻撃、更には蝦夷地(現在の北海道)に進出した和人(いわゆる「大和民族」)によるアイヌの人々への攻撃など戦いが絶えなかった。また自然災害(伝染病や飢饉も含む)も少なくなかった。おりしもこの時期は仏法が衰退するとされる時代「末法」であると解釈されたことも、人々の不安に拍車を掛けたことであろう。

こうした不安な時代の中で『聖徳太子未来記』は創られ、流布し、あるいは期待され、尾ヒレが付いて更に流布していったのだった。更に言うと、『聖徳太子未来記』誕生の理由としては、政治的宗教的な権威や正当性の演出という点も、見逃せない。

他にも、このように後の時代になって創作された予言書によって、“予言者”にされた仏教界のキーパーソンは少なくない。そうした、いってみれば「予言者にされた偉人たち」としては聖徳太子の他、彼亡き後『聖徳太子未来記』のいわば“続編”を書き継いでいったとされた行基や日蔵、オリジナルの予言書を著したとされた弘法大師(空海)や伝教大師(最澄)その他がいる。

なおいわゆる予言とは少し違うが、仏教関係者に限らず過去の偉大な人物の著作、特に遺訓とされるものも中世〜近世・近代日本では多く創作された。また、実際の遺訓なのか後世の創作なのか不明なものも少なくない(このタイプの遺訓としては、例えば仙台藩祖・伊達政宗によるとされる『伊達政宗公遺訓』がある。しかしながら、これは実は今に伝わった経緯が曖昧であり、且つ近世初頭の大名の遺訓としては不自然なまでに、身分制の論理が希薄である。このことから、筆者にはこれは近代に入ってから創作された可能性があるように思われる)。

こうした過去の偉人に仮託した(あるいは仮託した可能性のある)様々な著作は、今に「伝わった(とされる)」経緯を安易に鵜呑みにしたり、内容を真に受けて過度に将来を悲観したり楽観視すべきではないが、往時の様々な立場の人々の信仰生活(狭義の宗教だけでなく、偉人顕彰なども含めて)の一端を現代に伝えているという点では、貴重な遺物であるといえよう。

(寄稿)せっぱつまりこ

(参考)小峯和明『中世日本の予言書 〈未来記〉を読む』岩波新書、2007

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