日本救世軍のリーダー山室軍平が死後に献体をしたもう一つの理由【日本の葬儀歴史】

プロテスタント系キリスト教の一派である日本救世軍を、大正〜昭和戦前期に率いたリーダーの一人であった牧師(救世軍用語では「士官」)の山室軍平は、1940年に没した折、東京大学医学部に自主的に献体をしている。

山室の例のような、自主的な献体は、当時の日本ではまだ抵抗が強かった。しかし、彼は率先して献体を行なった。
その理由の一つとして、プロテスタント諸派では、死者の魂は死後すぐに肉体を離れ、天国に到達するという信仰が強いことが挙げられる。特に近代以降のプロテスタントは、キリスト教の中でも火葬や散骨をタブー視する傾向が少ないが、それも、先述した信仰のためである点が大きい。山室が献体を志願し、それが実行されたのは、一つには
こうした信仰のためであった。

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しかし、彼が献体を決めたのは、他にも理由があるように考えられる。結論を先に述べると、山室が献体をした「もう一つの理由」は、特にプロテスタントに限らず、カトリックや正教会なども含めた、キリスト教全般に共通する信仰を実践するためであった面が、かなり強い。
その「もう一つの理由」とは、「虐げられている人々や、“罪を犯した”人々への寄り添い」である。

日本では奈良時代には既に、大宝律令によって死者を解剖することが禁じられていた。その後の法律では、死者の解剖の禁止は明文化されなかったものの、江戸時代に入る前までは、絶対的なタブーであることに変わりがなかった。なお、人間の遺体の解剖を禁じたのは、敬うべき遺体を傷付けるとか、死者の尊厳を損ねるなどとされたからではなかった。そうした考え方は、日本では近代以降に定着した思想であり、前近代に遺体解剖がタブーであったのは、遺体を「穢れたもの」とする思想のためであった。

江戸時代も半ばになると、処刑された死刑囚の遺体が、医学的研究のために解剖される例が、記録の中に散見される。解剖の際の執刀を行なったのは、刑場で働く「被差別階級」とされた人々であった。

解剖を見学した医師としては、『解体新書』をオランダ語から日本語訳した、杉田玄白と前野良沢が有名である。また、彼らの前にも、幕府に仕えた医師の岡田養仙・藤本立泉らが、複数回死刑囚の遺体の解剖を見学していたことが、玄白の書いた『蘭学事始』でも言及されている。

当時、学術研究のために解剖された遺体は、ことごとく処刑された死刑囚であった。

その大きな理由は二つある。まず、遺体を「穢れたもの」としてタブー視する思想が、以前よりは若干薄れたとはいえ根強く残っていたことである。そのため、いわゆる変死した死者や身元不明の死者でない限り、人間の遺体を「いじくり回す」べきでないとする常識は、まだまだ健在であった。加えて、何らかの罪を犯した人物も、同じように「穢れている」とする思想が、既に古代からあった。

そうした二重のタブー視があったため、解剖されるのは、処刑された死刑囚の遺体に限られていた。なお近代に入ってからも、この傾向はしばらくの間は持ち越されていた。
近年まで献体に抵抗のある人々が多かった理由は、決して一つではない。ただ、このような歴史的背景のため、「解剖される遺体の主」にネガティブなイメージが付きまとっていたことは、大きな理由であろう。

そうしたネガティブイメージがあったからこそ、牧師であった山室軍平が率先して、当時の世間の目から見れば「ネガティブイメージにまみれた」自主献体をすることは、いわば「虐げられている人々・“罪を犯した”人々」に寄り添うことであり、「隣人愛の実践」に他ならなかった。
また、山室が所属していた日本救世軍は、近現代のいわゆる廃娼運動の推進者となり、遊郭の女性が、契約期間満了前に自主的に遊女勤めを辞め、他の仕事で経済的に自立すること(「自主廃業」)を支援した。自主廃業は明治以降は法律上可能ではあったが、廃娼運動が始まる直前まで、実質的にはほぼ不可能に等しかった。

これはいわゆる「表現規制反対派」の人々、特に「性表現・性風俗のタブーから自由であった前近代日本」という神話を信奉する人々や、江戸時代の社会や文化を極端に理想化して捉えるきらいがある人々が持ちがちな歴史認識だが、「近代になって入ってきた西洋のキリスト教文明、特にピューリタンやその他プロテスタント諸派は、性を賤しむ価値観を植え付けた」という歴史認識がある。

そうした側面も確かに皆無とはいいがたいが、だからといって、当時の外国人・日本人を問わないキリスト教関係者が、「性表現や性的な産業に携わる人々」を、常に頭ごなしに威圧・抑圧したというわけではない。この廃娼運動も、「性的な産業に携わる人々」である遊郭の女性を頭ごなしに断罪するものではなく、むしろ彼女らを、「虐げられている人々」として支援し、エンパワメントする側面が圧倒的に強かった。

そして、実は日本で初めて実質的に自主献体をしたのは、1869年に梅毒のため亡くなった吉原遊郭の女性「美幾」だとされる。なお、彼女は「自主献体をした功」で、多くの「吉原遊女としての死」を遂げた女性たちのような、いわゆる「投げ込み寺」の無縁仏としての墓ではなく、「一般人」としての墓に埋葬された。
これらのことからも、山室が没後に自主献体をしたのは、まさに「信仰に生きる者としての、隣人愛の実践」として、虐げられている遊郭の女性の苦難を分かち合うことでもあったということが伺える。

(寄稿)木皿さらさら

<参考文献>
吉屋信子『吉屋信子全集12』朝日新聞社、1976
小野友道『いれずみの文化誌』河出書房新社、2010
杉田玄白、長尾剛現代語訳『現代語ですらすら読める新釈「蘭学事始」』PHP研究所、2004

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