戦前の日本救世軍のリーダー山室軍平~没後自分の遺体を献体した深いわけ【日本の葬儀歴史】

プロテスタント系キリスト教の宗派の一つ、日本救世軍(以下「救世軍」)の大正〜昭和戦前期のリーダーであった山室軍平(1872-1940)は、青年期には同志社英学校(現・同志社大学)の学生であった。
卒業後救世軍士官(多くのプロテスタント系キリスト教でいう牧師)となってからは、廃娼運動(吉原などの遊郭の女性が、いわゆる年季明けを待たずに自分の意志で遊郭勤めを辞め、「一般人」として手に職を得て生活することを支援する活動)を強力に推進した。

そんな山室は、実は亡くなった時に、自分の遺志で東京大学医学部に現代でいう献体をしている。
彼が没した1940年当時、自主的な献体はまだまだ珍しいことであった。
そんな珍しい献体を、山室が率先してした理由について考えるには、まず近代日本の都市部の葬送習俗の変化や、近代以降のプロテスタント系キリスト教における死者の位置付けについて知ることが重要である。

明治以降の日本の大都市圏では、火葬をタブー視する思想も一部にはあった江戸時代に比べ、火葬率が上がった。そして、この時期に率先して火葬を選択した人々の中には、実は意外なことに、救世軍関係者も含めてプロテスタント系のキリスト教の信者(及び、正規の信者になることを志願した人物)が一定数いた。

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リアルタイムで信仰されているキリスト教との接点が余りない人々によって、「キリスト教では、故人は死後の楽園(天国)で肉体を持って復活するという信仰があるため、故人の肉体が失われる火葬はタブーとされる」という理解がされることが、現代の日本ではよくある。しかし、実際にはこの信仰も、宗派や時代・国や民族などによって、まちまちである。

中でもプロテスタント諸派は(こちらも、信者たちの民族的・文化的な背景により差はあるが)、キリスト教の様々な宗派の中でも、特に近代以降は、比較的火葬や散骨などをタブー視しない場合もしばしばある。近代日本で積極的に火葬を希望した人々の中に、プロテスタント諸派の信者が一定の割合でいたのは、一つにはそのためもある。

プロテスタント諸派では基本的に(時代や国、民族などによって差はあるが)、

1、故人の魂は死の瞬間に、肉体を離れて天国に到達する
2、天国で復活した時の故人の肉体は、生きていた時の肉体と、常にイコールとは限らない

という信仰が強い傾向にある。火葬や散骨などを余りタブー視しない傾向もそのためであり、近代日本のプロテスタントの人々の中に、率先して火葬を希望した人物が複数いたのも、一つにはこの信仰のためである。

そしてこのような信仰があったからこそ、山室は、当時まだ多くの人々にとって抵抗感のあった献体を自主的に決め、実行することができたのであった。

このように、当時のプロテスタント信者の中には、率先して火葬や献体を希望し、実現した人々が一定数いたのだった。

更に言うと、19世紀半ばの清朝中国で15年近く続いた武装蜂起「太平天国の乱」(1850-1864)の際にも、近代日本のプロテスタント信者がしばしば率先して火葬や献体を希望したことと、共通の発想の例がみられる。そもそも「太平天国の乱」の指導層の人々は、プロテスタントに思想的影響を受けていたのだから、似た発想があるのも当然である。

その考え方が如実に現れたケースというのは、蜂起軍のルールの一つとして決められていた、「身分や老若男女を問わず、死者は棺に入れず埋葬すること」という決まりである。この決まりには複数の理由があるが、矢張り、「故人の魂はすぐに天国に行くので、その際には棺は必要とされない」という信仰が、最も大きな理由であった。

なお、「故人の魂は、生前の肉体に宿るとは限らない」とする信仰は、そのまま、当時の日本のノンクリスチャンの人々の火葬をめぐる信仰とも、偶然似た点があった。今ではほとんどの人々が忘れてしまってはいるが、1950年代初頭までの日本では、火葬が盛んな地域や宗教宗派(当時は少数派であった)では、「故人の魂は遺体には宿らずに、すぐに死後の世界に行く」という考え方が、主流であった。

(寄稿)木皿さらさら

吉屋信子『吉屋信子全集12』朝日新聞社、1976
堀一郎『民間信仰』岩波全書セレクション、2005(オリジナルは1951)
ジョナサン・D・スペンス、佐藤公彦訳『神の子洪秀全 その太平天国の建設と滅亡』慶應義塾大学出版会、2011

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