「塔婆山」と死者の魂のゆくえ

日本も含めて世界各地には、人がみだりに入ったり、木を切ったり動物を狩ったりなどすると、祟りがあるという言い伝えがあった山岳・丘陵(以下「山や丘」)がある。中でも日本にある、そうした立ち入りその他をタブーとした山や丘の中には、時々、葬儀文化史から見ても興味深い伝説が、伝わる場所もある。

1938年に柳田国男が報告した、通称を「塔婆山」と呼ぶ山や丘も、その一つである。
当時は、「塔婆山」という通称で呼ばれていた山や丘は、日本国内にちらほらあったと推定される。そうした塔婆山は、ほとんどが三角形の山地であり、しばしば北向きでもあった。なお、柳田は塔婆山以外の名で呼ばれる、立ち入りなどをタブーとした三角形で北向きの山地についても、報告している。

なぜ、塔婆山という呼び名になったのか。山や丘の形状が、石造りの卒塔婆(現代でいう、いわゆる五輪塔)に似ているから、塔婆山と呼ばれるようになった可能性も、ないとはいえない。しかし先述のように、みだりに入ると祟りがあると信じられた三角形の(そして北向きであることが多い)山地には、他の通称で呼ばれる場所もあり、必ずしも山地の形状とは関係があるとはいいがたい。

柳田は当該報告で、埼玉県の秩父の「塔婆山」(=1930年代後半当時、塔婆山と呼ばれていた山地。筆者の知る限りでは、それは具体的にどこなのかは不明)が、「昔の火葬処」であると伝わっていたり、「因縁附きの山」(「昔の火葬処」であったとされる他には、どんな「因縁」があったのかは伝えていない)ともいわれていると書いている。つまり、死者の葬送と関連する言い伝えがあったために、死者供養のための五輪塔の名を付け、生者がむやみに立ち入ることをタブーとしたのではないか、と考えられる。

しかし実際に、1930年代後半頃から見て「昔」と呼べるような時代、しかも詳細が曖昧になり、言い伝えだけが残るほどの過去の時代に、秩父の山や丘で(時代背景を考えると、ある程度以上の身分の人々の)火葬が行われたのかどうかは、わからない。

また、人が亡くなることを「○○(実在の具体的な地名。実際、死者がそこへ葬られるしきたりがあったケースもある)へ行く」と表現する言い回しが、沖縄を含む西日本を中心に、何件か報告されている。しかし秩父の例では、 亡くなることを「塔婆山へ行く」という言い回しは、筆者の知る限りでは報告されていない。

ただ、この「昔の火葬処」だったという説も含む「因縁」があるとして、立ち入りや開墾などをタブーとした背景には、「死者の魂は遺体や墓でなく、彼や彼女の亡くなった場所や、遺体が処置を受けた場所に留まる」とする信仰も、あるといえる。現代でもしばしば、交通死亡事故の現場に花束が供えられることがあるが、これもこの信仰の延長線上にある。

また、先に現代の交通事故の犠牲者の例を挙げたが、非業の死を遂げた死者ほど、死の現場に魂が留まるとも、信じられていたようである。この考え方は、いわゆる「夜泣き石」伝説とも、深い関係がある。

戦死したり処刑されたりした往時の要人の魂が、死の現場にあった岩などに宿り、その岩が後に泣き声を上げたという伝説が、各地にある。この岩を「夜泣き石」と呼ぶが、秩父の「塔婆山」にも、古くはこうした、「夜泣き石」伝説のような言い伝えがあった可能性もあり得る。こうした「夜泣き石」伝説に近い言い伝えが、時代が下っていくと忘れられ、言い伝えの内容も、ただとにかく「昔の火葬処」だとか、「因縁」があるなどの漠然としたものに変わっていった可能性も、ないとはいえない。

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笹本正治『鳴動する中世 怪音と地鳴りの日本史』朝日選書、2000
柳田国男『禁忌習俗事典 タブーの民俗学手帳』河出書房新社、2014

(寄稿)せっぱつまりこ

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