近現代社会の到来期の歴史ある都市部での墓地の移動について

近年の日本では、転居やその他個人の家庭の事情などのため、個人や家(「○○家代々の墓」のようなタイプ)の墓の移動(いわゆる「改葬」)を希望したり、実際に実行する方は、案外多いものである。
しかしながら、例えば寺院などの墓地や霊園のような、一般に親戚同士ではない複数の家族(の死者)が集団で葬られているタイプの墓地全体の移動は、現代日本も含めた近現代のいわゆる先進諸国とされる国々では、極めて珍しい傾向にある。

ところが、それ以前の時代、特に前近代社会から近現代社会に移行していく過程では、日本も含めたいわゆる先進諸国の特に都市部で、墓地全体の移動が行われることが多々あったことは、意外と知られてはいない。
前近代社会が近現代社会に移行していく中で、特に古くからある都市部に作られていた墓地全体が場所を移動するという出来事は、日本やヨーロッパなどのように比較的歴史が古く、且つ現代ではいわゆる先進諸国とされる国々では、しばしばみられたことである。
では、なぜそのような墓地の移動が行われたのか。それについて語るには、それらの移動した墓地のある(あった)都市に大まかに共通するといえる、前近代〜近現代の歴史について語ることを抜きにはできない。

日本史・世界史を問わず、都市の歴史について書かれた本などを読むと、時々一つの都市の中に「旧市街・新市街」という区分があるケースに行き当たることがある。また世界遺産でも、「○○旧市街」「○○歴史地区」などが登録されているケースがよくある。
この「旧市街・新市街」の区別はどのようにされているかというと、一般的にその国や地域が「近代」に入る前から都市化していた部分が「旧市街」であり、「近代」以降の比較的新しい時代になって都市化した部分が「新市街」である、とされているようだ。
この「新市街」は、なぜ「近代」に入ってから都市化したのだろうか。
国や地域によっていつ起こったのかには差があるが、「近代」に入っていわゆる「産業革命」が起こり、大量生産・大量消費の時代を迎え、また鉄道など公共交通機関が誕生・発達してきたことが、都市部への人口移動をもたらした要因の一つであることはよく指摘されている。
そしてまさにこのことが、「新市街」の誕生を促したのだった。
つまり、移住者の流入により「旧市街」の人口が飽和状態になってきたわけである。そのため「旧市街」に入り切れなくなった新住民たちが、それまで郊外に当たる地区に住むようになり、結果としてそこも都市化していったのが、「新市街」だというわけであった。

そして実はこの動きは、墓地の移動とも密接に結び付いていた。
実際日本でも、都市の中心部やそれに近い区域にあった墓地が郊外へ移動したケースが、近代初期に幾つかあることが報告されている。
例えば現在の大阪市にある梅田や千日前は、かつては大坂(明治時代になる前には、大阪は「大坂」と書いた)の市街地周縁部に当たり、墓地が設けられていた。
明治の極めて始めの頃には、梅田や千日前は既に市街地の周縁部とはいいがたいほど都市化が進んでいたこともあり、墓地はこの時期にはまだ近郊であった阿倍野や長柄に移動した。
ところで梅田は現在の大阪駅近くであり、千日前もミナミの繁華街中心部となっている。なお、鹿児島市でも墓地の移動した跡地の似た利用のケースがある。こちらでは、大正時代に南林寺墓地という大規模な墓地を移動させ、跡地に芸者の活動する区域(いわゆる花街)を建設した。

更には、東京都府中市にある東京競馬場も、安土桃山時代に府中を治めていた領主井田家の墓であった。
この東京競馬場は1933年に作られたが、当時まで住んでいた井田家当主が(噂では日本刀を振り回して)土地の買収に強く抗議したため、墓自体の移動はできず、競馬場敷地内に今も残されているとのことである。
このように、城下町を始め比較的歴史のある街では、今となっては思いもつかないような場所が、かつての墓の移動した跡地だったりするケースも、案外あるものなのである。

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加藤政洋『花街 異空間の都市史』朝日選書、2005
加門七海『うわさの神仏其ノ三 江戸TOKYO陰陽百景』集英社文庫、2007

世界遺産豆知識5 旧市街とその全リスト
https://allabout.co.jp/gm/gc/66342/

(寄稿)せっぱつまりこ

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