明治〜大正初期の東京での死者の埋葬を巡る諸説について

明治時代の東京では、前近代に比べ死者を火葬することが多くなった。とはいえ現代と比べると圧倒的に火葬率は低く、1905年の時点でも火葬率は58%であった。

ところで、この頃の東京では火葬は広い墓の土地が買えない貧しい庶民の葬法であり、土葬はそれなりに富裕層に属する人々の葬法であったとする指摘がある。実際、明治期に貧困の末に若くして亡くなったものの今では偉大な文学者として知られる樋口一葉や石川啄木は火葬されているが、彼女と彼はまさに「貧しい庶民の死者」として火葬されたケースといえるだろう。

しかし一方では、この図式に当てはめると1905年の東京では42%もの(半数近くの)住民が「それなりの富裕層」の人々であったということになってしまい、当時の東京の実態とは掛け離れたものとなってしまう。

また、ちょうどこの頃に日本に複数回滞在していたイギリス人のリチャード・ゴードン・スミスの旅行記にも、彼が(当時一般に来日外国人はわざわざ見に行きたがらなかった)東京の(当時は郊外とされた地域にある)火葬場を訪れた際のことが記録されているが、そこで火葬される死者には「金持ち」も「貧しい者」もいたということが明記されており、「火葬は貧しい死者の葬法であり、土葬は裕福な死者の葬法であった」とは一概には言うことはできない。

更にいえばこれは少し後の大正初期の例であるが、これまた近代日本の代表的文学者の一人である夏目漱石は雑司ヶ谷霊園に夏目一家の大きな墓を準備できるほどであったが、火葬により葬られている。彼のケースは「広い墓を準備できない貧しい死者としての火葬」でないことは明らかである。

もっとも、明治期の東京で火葬率が前近代に比べ上昇したのは、近代に入って(前近代では、基本的に江戸で亡くなった地方出身の死者は、当該の死者の居住地の近くの寺院が葬儀・埋葬を行うことが一般的であり、「故郷の墓」への執着は決して高くなかった)他の地域を仕事や生活の基盤とした人々も、亡くなった際には「故郷の墓」に埋葬されるのを良しとする傾向が強くなったこととも密接に結びついていた(つまり遺骨となることにより、折から発達した鉄道によって故郷に持ち帰ってもらうことが期待できた)。ただ一方、この「故郷の墓に葬られるのを良しとする」傾向とはまた異なる傾向も近代に入って生まれたが、今回は触れない。

スミスが報告した火葬される富裕な死者も、あるいは東京での仕事により大金を作った地方出身者であったかも知れない。

とすると、「火葬はどちらかといえば貧しい死者の、土葬はどちらかといえば富裕な死者の葬法」というのは東京(江戸)出身の住民か、地方出身であっても何らかの理由で故郷との関係が断絶した(あるいはそれに近い状態の)住民に限られた傾向であった可能性もある。現に先述の「貧しい庶民の死者」として火葬された二人の文学作家の例でも、樋口一葉は東京出身であったし、石川啄木は岩手県出身であったが様々な事情により一家全員で故郷との関係が断絶したに等しかった。

ただ、夏目漱石は東京出身であり広い墓の土地を持つほどの経済力を有していたものの火葬されていたが、彼の例は必ずしも一般的なものでない可能性が高い。これについても、筆者は色々と興味深く思う。

更にいえば、この時代の(特に都市部の)葬儀はしばしば派手な演出を伴う葬列がつきものであった(しかもそれは次第に庶民層にも取り入れられ、現在の葬儀社による葬儀の原型となった)一方、いわゆるインテリ層の人々の中にはそうした演出を「虚礼であり非合理なもの」として辞退する傾向も生まれていた(そうした知識人の中には、『学問ノススメ』の著者であり慶應義塾大学の創設者でもある福沢諭吉がいるが、彼のケースはまた若干特別なものなので今回は深入りしない)。

そのため、庶民層とはいえ多少なら経済的に余裕のある死者の場合、土葬できる墓の土地を取るか、火葬した遺骨にしか対応できないほどの狭い墓しか準備できなくとも華やかな葬列の演出を取るかということになった際には、後者が選ばれることが多かった可能性もある。

【参考文献】
此経啓助『明治人のお葬式』現代書館、2001
勝田至編『日本葬制史』吉川弘文館、2012
横田睦『お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術』平凡社新書、2000
リチャード・ゴードン・スミス、荒俣宏翻訳・解説、大橋悦子共訳『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』小学館、1993
異なるハンドルネームで執筆した拙記事2点
明治時代に来日していた、あるイギリス人が見た大阪と東京の火葬の違い
明治に国内で広がりをみせた火葬。お隣の中国はどうだったのか調べてみた。

(寄稿)せっぱつまりこ

「遺体のない葬儀」としての、仙台藩主伊達家の灰塚葬

筆者は2016年頃から、仙台藩主伊達家の当主及び当主夫人の葬儀の際の、江戸時代初期に行われ18世紀初頭に当時の当主によって「時代に合わない無益なしきたり」とされて廃止された独特のしきたりに強い関心を持ち続けている。

そのしきたりは「灰塚」という。
どんなものかというと、藩主や藩主夫人が亡くなった際葬儀前に遺体や(火葬の場合)遺骨を埋葬してしまい、遺体のない棺を安置して葬儀を行う。
そして葬儀後に棺を燃やし、灰を遺体や遺骨が埋葬された墓とは異なる場所に埋めて塚を築くというものである。
しかしながら、このしきたりに関しては当時の有力大名の家のしきたりであったにも関わらず、いつ頃なぜ始まったかについては筆者の知る限りでは記録が残されておらず謎に包まれている。

筆者はこの灰塚のしきたりに、一種の「両墓制(遺体や遺骨を埋葬する墓と、墓参り用の遺体・遺骨のない墓を持つ墓制)」としての側面や「擬似火葬」としての側面を見出し、それらの習慣に関する先行研究と照らし合わせてこの灰塚の習慣がなぜ始まったかに関して他の複数の記事で考察しようとしたが、決定的な答えは出なかった。

また、この灰塚の風習は「遺体(遺骨)が既に埋葬されている=つまり遺体(遺骨)のない葬儀である」という点でも、極めて珍しく興味深い例である。
この「遺体のない葬儀」としての側面からの考察はまだしていないので、これから是非やってみたいと思う。

ところで伊達家は平安〜鎌倉・南北朝時代初頭には現在の茨城県筑西市の領主であったが、その筑西市には「灰塚」という地名がある。
これはもしかしたら伊達家はその時点(つまり古代後期〜中世)で灰塚のしきたりを始めていたことの証左ではないかと思い、筑西市の教育委員会に電話で問い合わせてみたが、そうした「灰塚」に関する記録や遺跡は残っていないとのことであった。

つまり、矢張り結局灰塚の風習は、「終わり」の時期や経緯についてはそれなりに明らかであるが、「始まり」については依然全く謎であるのだった。
ただ、実際の灰塚やそれに関する記録や伝承が全く残っていないものの、中世期の伊達家の本拠地であった地域に「灰塚」という地名があることは、伊達家は既に早ければ平安時代、遅くとも南北朝時代の初めにはこの灰塚葬のしきたりを持っていた可能性がある。

更には伊達家が筑西を治めていた時期のことを考えると、灰塚葬の先述した「遺体のない葬儀」としての側面には、何らかの意味があったように思われる。

というのは、これは京都(平安京)での例であるが、ちょうど伊達家が筑西領主であった時代の日本では、天皇や上流貴族といった支配者層の人々が亡くなった際に身分の低い一般庶民がしばしば徹夜(この時期の貴人の葬儀・火葬または埋葬は、一般に人目をはばかって夜間に行われた)で葬儀・火葬/埋葬を見物するほどの野次馬となり、時には葬列や埋葬現場に乱入する騒ぎを起こしていることが、当時の記録に書かれているからである。

なぜ当時の庶民層の人々がこのような行動を取ったのかは諸説あり不明だが、一種の民間信仰としての側面があった可能性もある。
このことからも、死者の遺体を見ることをタブーとしたり、「葬列(現代での霊柩車)を見たら親指を隠す(あるいはそれに類するしぐさを行う)」など、(特に自分の縁者でない死者の)葬列を死霊への恐れのためにタブー視する縁起担ぎが庶民層でも一般化したのは、実際には新しい時代(早くても江戸時代以降)である点も多いということがうかがえる。

無論この京都での例を安易に当てはめるべきではないが、伊達家の当主や当主夫人が亡くなった際、遺体や遺骨を葬儀前に埋葬してしまっていたのは、こうした、野次馬となった庶民に遺体や遺骨を冒涜(当の庶民たちにとっては、尊崇の一形態であったかも知れない)されることを防ぐためでもあった可能性も、皆無ではないだろう。

【参考文献】
勝田至『死者たちの中世』吉川弘文館、2003
新谷尚紀監修『日本人の禁忌(タブー) 忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ・・・人は何を恐れたのか』青春出版社プレイブックスインテリジェンス、2003

(寄稿)せっぱつまりこ

沖縄文化圏で戦後に火葬が普及した背景には、女性の人権を守る意味もあった

第二次世界対戦後の日本列島では、特にいわゆる高度経済成長期頃以降に一般市民層にも死者の遺体を火葬する習慣が普及(あるいは再普及)していった。

その理由については様々あるが、一般に狭い土地をより効率的に利用するという意味や、衛生上の理由などが火葬の普及や再普及の理由であると指摘されている。そうした中でも、沖縄や奄美群島など(以下「沖縄文化圏」)では、「女性の人権のため」という側面も決して見逃せない。このことは、女性史研究の点でも重要だといえる。

そしてそのことがより具体的に問題として取り上げられた例としては、沖縄本島にある大宜味村の喜如嘉地域のケースが挙げられる。

なぜ、火葬の普及が女性の人権を守ることにつながったのか。その背景には、この地域でかつて行われてきた「洗骨」のしきたりがある。

往時の沖縄文化圏では、死者が出ると遺体を洞穴を利用した墓などに仮埋葬し、白骨化した頃に遺族などが遺骨を取り出して水で洗い清め、一族の共同墓に納骨するしきたりがあった。

そして重要な点は、この「死者の遺骨を取り出し、洗い清めること」は時代や地域、身分などにより勿論差はあるが、遺族の中でもしばしば女性の務めとされてきた歴史があるということである。

これが、特に戦後すぐの大宜味村では結果的に女性を抑圧するしきたりとなってしまったというのである。それには、当時の大宜味村の社会的状況も深く関係する。

大宜味村は沖縄本島北部にあるため、戦時中の沖縄戦で激戦地となった本島南部から多くの避難民が移ってきた。折からの伝染病流行や栄養不足により、そうした避難民や地元の人々が次々と亡くなったため、村の共同墓地(仮埋葬墓。亀甲墓という、沖縄文化圏の伝統的な墓)がすぐに満員になり、通常より早い時期に先に仮埋葬された遺体(遺骨)を洗骨し、どんどん正式に埋葬していくことが求められた。そのため、住民女性たちは十分に白骨化していない遺骨であっても洗骨しなければならず、大変過酷な任務と化してしまったということが、この大宜味村で女性を中心に火葬場を希望する運動が起こり、1951年に火葬場設置が実現したことの大きな理由であった(なお補足すると、那覇市には大正期には既に近代型火葬場が設置されていたが、沖縄戦で破壊され、いつ再設置されたかは筆者は調べてはいない)。

なお、大宜味村で火葬場が建設された際の最初の火葬される死者がもし「若い」死者であったら、祟りとみなされ利用が続かなくなると心配されていた。しかし火葬第一号の死者は高齢の女性であり、火葬された遺骨も「白くきれい」であったので人々は満足したという。こうした当時の状況からは、火葬場を希望する動きがあるとはいえ、矢張り今までその地域では馴染みのなかった火葬の習慣には、住民の不安も根強かったということがわかる。

酒井正子『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』小学館、2005
関沢まゆみ・国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 盆行事と葬送墓制』吉川弘文館、2015

(寄稿)せっぱつまりこ

遺骨信仰が先か、火葬技術が先か⁉︎ 〜ハワイ先住民の「伝統的葬法」の諸相〜

筆者は以前、18世紀後半〜19世紀初頭のハワイ先住民によって行われた、「神聖な人物」とされた死者の葬法としての「遺骨の形崩れを極力防ぐよう、細心の注意事項が払われた野焼き火葬」について書いた。
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ハワイ先住民の間でかつて行われた遺骨信仰

前回、筆者は前近代〜近代初頭のハワイ先住民の間で「神聖な葬法」とされた、死者の遺骨を極力形崩れさせないよう細心の注意を払った野焼き火葬法(浅く掘った穴に置かれた遺体の上に薪を積んで上部から点火する)について書いた。そして補足として、ハワイ州は現在でもアメリカの中でも火葬が多く行われる地域の一つであるということにも、言及した。

このことから、ハワイ先住民の間では火葬が忌避されるどころか、むしろ「神聖な葬法」であるとして特に「尊い」とされた人物が亡くなった時にしか、行ってはならないとされた(そして後にそうした一種の宗教的タブーが薄れ、ただ単に“高級な”あるいは“多くの人々が憧れる”葬法とみなされた)のではないかと推定できる。

しかし一方では、信仰上のタブーを犯した者が刑罰として灰と炭になるまで火で焼かれたという記録の存在もあるという。この「タブーを犯した人物が原形を留めなくなるまで焼かれる」ということが、いわゆる火あぶり処刑なのか、それとも他の方法で処刑された死刑囚の遺体を焼いたのかということは、解釈が分かれるふしもある。

そもそも前近代〜近代初頭にハワイ先住民の行った葬法は、時代や地方、どんな神を信仰しているか、当該死者の死因はどんなものであったか、あるいは死者の身分や職業等々によって全く様々であり、「ハワイ先住民の伝統的葬法はこうであった」と一言で言い切ることは、実際には結局できないことである(なお、これは日本の伝統的葬法に関しても大いに当てはまる)。

ただ、こうした「罪深いとされた者の肉体を形が残らないよう焼き払う」ことが実際に行われたのだとしたら、先述した「神聖な葬法としての火葬」の「神聖さ」は「死者の遺体を火で焼く」ことそのものではなく、「死者の遺骨がきちんと原形を留めている」ことによって担保されていたといえるであろう。

こうしたことから考えると、往時のハワイ先住民が「原形を留めた死者の遺骨」を特別に神聖なものと考えていたらしいことが窺えるが、時と場合によっては、彼らはそうした遺骨の一部を一種の信仰対象として自分の身の周りに置き、更に場合によっては釣針などに加工することもあったようだ。

実際、18世紀終わり〜19世紀初めのハワイ王であったカメハメハ1世大王の第二王妃であり、カメハメハ1世の没後は摂政として強い政治的権力を握ったカアフマヌは、彼女の父の遺骨を大切に持っていたと、当時ハワイを訪れた西洋人の記録にあるという。なおカアフマヌは摂政になると、ハワイ土着の神を信仰する敵対勢力に対抗するためプロテスタント系キリスト教に改宗しているが、彼女の改宗後に父の遺骨がどうなったかは、筆者の知る限りでは不明である。
更にいうと、前回に詳しく書いた、形崩れしないよう火葬されたカメハメハ1世の遺骨が葬られた場所が誰にも知られてはいけないとされたのも、一つにはこの遺骨信仰と深い関係がある。

つまり結論からいうと、カメハメハ1世(と、歴代の王を始めとする多くの要人たち)が自分の遺骨を誰か知らない者に触れられたり持ち去られたりすることを忌避したことが、遺骨の埋葬場所を徹底的に秘密にしたことの大きな理由の一つであった。

『神々のハワイ 文明と神話のはざまに浮かぶ島』スザンナ・ムーア著、桃井緑美子訳、早川書房、2004
『ハワイの歴史と文化 悲劇と誇りのモザイクの中で』矢口祐人著、中公新書、2002
『ハワイ・南太平洋の神話 海と太陽、そして虹のメッセージ』後藤明著、中公新書、1997

(寄稿)せっぱつまりこ

遺骨信仰が先か、火葬技術が先か⁉︎ 〜ハワイ先住民の「伝統的葬法」の諸相〜
「神聖な人物」の葬法とされた、往時のハワイの野焼き火葬法

「神聖な人物」の葬法とされた、往時のハワイの野焼き火葬法

以前筆者は、鳴海徳直氏が著書『ああ火葬』(新潟日報事業社、1995)で「日本古来の伝統的火葬法」であるとしている、遺骨が形崩れしないよう地面を少々掘り下げて薪を敷き詰め、そこに故人の遺体を置き、その上に薪や藁を被せて上部に点火する火葬法は、実際には近代以降の一時期・一地域の例に過ぎなかったのではないか、と仮定した。
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「塔婆山」と死者の魂のゆくえ

日本も含めて世界各地には、人がみだりに入ったり、木を切ったり動物を狩ったりなどすると、祟りがあるという言い伝えがあった山岳・丘陵(以下「山や丘」)がある。中でも日本にある、そうした立ち入りその他をタブーとした山や丘の中には、時々、葬儀文化史から見ても興味深い伝説が、伝わる場所もある。
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