「屋敷神」としての江戸城内にあった将軍霊廟と、実際に屋敷墓のあった今井城

筆者は以前、江戸城の敷地内(紅葉山と呼ばれたエリア)には亡くなった歴代将軍を祀る「御霊屋(霊廟)」が建てられるエリアがかつてあり、初代家康から6代目までの将軍は個別の霊廟に祀られたが7代目以降の将軍はそれ以前の将軍霊廟に合祀された(なおそれらの御霊屋は江戸城が皇居となったため取り壊され、現存していない)ということについての記事を書いた。

その中で、この江戸城内の霊廟はいわゆる「両墓制」でいうところの遺体のない「参り墓」の一種なのではないか、あるいは(一般的なタイプの「屋敷墓」と違い遺体はないが)かつて特に東日本で盛んだった「屋敷墓」の一種なのではないかという仮説を立てたが、そのどちらとみなしたとしても、筆者には結局帯に短しタスキに長しなように感じられた。

そして筆者は最後に、この江戸城内の将軍御霊屋は、特に東海地方を中心として東日本でよくみられる、個々の家の敷地内に祀られるその家の守り神「屋敷神」との類似性があることに言及したが、実際この「屋敷神」の中には、その家の家族が亡くなった後に三十三回忌を迎えた後に「地の神」になったのがこの「屋敷神」である、とする信仰に基づくものもあるという。

そういえば徳川家は東海地方にルーツを持つ一族であったし、且つこの江戸城内の将軍御霊屋も「東照宮」である、ともされていたようである(黒田涼氏は、『江戸城を歩く』の中で、江戸城内の御霊屋を「東照宮」と書いている)。その点も考慮に入れると、江戸城内の御霊屋は「参り墓」や「屋敷墓」というよりは、圧倒的に「屋敷神」に近いといえるだろう。

ただ、中世〜近世の東日本の城の中には、実際に城の敷地内に城主や彼の家族の(である可能性が極めて高い)遺体を埋葬した、より「屋敷墓」性の強い墓を持つ城も、数は少ないが存在した。その一つが、現在の東京都青梅市にある「今井城址」である。

今井城は正確な創建年代・創建者共に不明だが、戦国時代に現在の青梅市界隈の領主であった今井氏(この一族の詳細な伝は不明)によって創建されたとされている。この今井城址から、戦国時代頃の火葬された人骨が出土したという報告がある。

この遺骨を城主であったらしい今井氏の一家の一員のものであったとするなら、戦国時代頃の東日本で火葬されたということは、今井氏は詳しい記録や伝承は伝わらないものの、最盛期にはそれなりに有力な(場合によっては、上方などの西日本とも何らかのつながりがあった可能性も否定できない)領主であったのではないかということが推定される。

【参考文献】
福田アジオ『番と衆 日本社会の東と西』吉川弘文館、1997
永峯光一・坂詰秀一共編『続江戸以前 蘇った中世の東京』東京新聞出版局、1982
黒田涼『江戸城を歩く』祥伝社新書ヴィジュアル版、2009

タブー視された、偶然出土した過去の時代の遺骨

清朝末期の大衆向け絵入り新聞『点石斎画報』の中に、興味深い記事がある。

それは、江蘇省にあった陶磁器の産地「趙家窯」で、古代の貴人のものらしい墓が、偶然3基見つかったという記事である。

趙家窯のとある窯業従事者が、資材である粘土を掘っているうちに、偶然3基のレンガ造りの古代の墓を見つけた。そこからは大量の古銭や刀銭(古代中国のコインの一種。刀の形をしている)、宝石で作られた鏡、銅鏡、宝剣、様々な陶器が発見された。そして骨董鑑定家によって、これらは皆、秦王朝や漢王朝以前のものであるらしいとわかった。
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徳川将軍家も一種の「両墓制」と思われるしきたりを持っていた

仙台藩を築き、江戸時代の終わりまでそこを統治した大名の伊達家には、18世紀初頭に「時代遅れであり無益」とされて廃止されるまで、藩主や藩主夫人が亡くなった際「灰塚」を築くしきたりがあった。
この「灰塚」は、藩主・藩主夫人の棺を焼いた際の灰を埋めた塚である。彼らが死去した折、葬儀が行われる前に遺体や遺骨を埋葬してしまい、遺体(あるいは遺骨)の入っていない棺のみで葬儀を執り行うことが一般的であった。
仙台市内に現存する灰塚としては、筆者の知る限りでは初代藩主政宗と彼の母保春院のものがある。
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