「遺体のない葬儀」としての、仙台藩主伊達家の灰塚葬

筆者は2016年頃から、仙台藩主伊達家の当主及び当主夫人の葬儀の際の、江戸時代初期に行われ18世紀初頭に当時の当主によって「時代に合わない無益なしきたり」とされて廃止された独特のしきたりに強い関心を持ち続けている。

そのしきたりは「灰塚」という。
どんなものかというと、藩主や藩主夫人が亡くなった際葬儀前に遺体や(火葬の場合)遺骨を埋葬してしまい、遺体のない棺を安置して葬儀を行う。
そして葬儀後に棺を燃やし、灰を遺体や遺骨が埋葬された墓とは異なる場所に埋めて塚を築くというものである。
しかしながら、このしきたりに関しては当時の有力大名の家のしきたりであったにも関わらず、いつ頃なぜ始まったかについては筆者の知る限りでは記録が残されておらず謎に包まれている。

筆者はこの灰塚のしきたりに、一種の「両墓制(遺体や遺骨を埋葬する墓と、墓参り用の遺体・遺骨のない墓を持つ墓制)」としての側面や「擬似火葬」としての側面を見出し、それらの習慣に関する先行研究と照らし合わせてこの灰塚の習慣がなぜ始まったかに関して他の複数の記事で考察しようとしたが、決定的な答えは出なかった。

また、この灰塚の風習は「遺体(遺骨)が既に埋葬されている=つまり遺体(遺骨)のない葬儀である」という点でも、極めて珍しく興味深い例である。
この「遺体のない葬儀」としての側面からの考察はまだしていないので、これから是非やってみたいと思う。

ところで伊達家は平安〜鎌倉・南北朝時代初頭には現在の茨城県筑西市の領主であったが、その筑西市には「灰塚」という地名がある。
これはもしかしたら伊達家はその時点(つまり古代後期〜中世)で灰塚のしきたりを始めていたことの証左ではないかと思い、筑西市の教育委員会に電話で問い合わせてみたが、そうした「灰塚」に関する記録や遺跡は残っていないとのことであった。

つまり、矢張り結局灰塚の風習は、「終わり」の時期や経緯についてはそれなりに明らかであるが、「始まり」については依然全く謎であるのだった。
ただ、実際の灰塚やそれに関する記録や伝承が全く残っていないものの、中世期の伊達家の本拠地であった地域に「灰塚」という地名があることは、伊達家は既に早ければ平安時代、遅くとも南北朝時代の初めにはこの灰塚葬のしきたりを持っていた可能性がある。

更には伊達家が筑西を治めていた時期のことを考えると、灰塚葬の先述した「遺体のない葬儀」としての側面には、何らかの意味があったように思われる。

というのは、これは京都(平安京)での例であるが、ちょうど伊達家が筑西領主であった時代の日本では、天皇や上流貴族といった支配者層の人々が亡くなった際に身分の低い一般庶民がしばしば徹夜(この時期の貴人の葬儀・火葬または埋葬は、一般に人目をはばかって夜間に行われた)で葬儀・火葬/埋葬を見物するほどの野次馬となり、時には葬列や埋葬現場に乱入する騒ぎを起こしていることが、当時の記録に書かれているからである。

なぜ当時の庶民層の人々がこのような行動を取ったのかは諸説あり不明だが、一種の民間信仰としての側面があった可能性もある。
このことからも、死者の遺体を見ることをタブーとしたり、「葬列(現代での霊柩車)を見たら親指を隠す(あるいはそれに類するしぐさを行う)」など、(特に自分の縁者でない死者の)葬列を死霊への恐れのためにタブー視する縁起担ぎが庶民層でも一般化したのは、実際には新しい時代(早くても江戸時代以降)である点も多いということがうかがえる。

無論この京都での例を安易に当てはめるべきではないが、伊達家の当主や当主夫人が亡くなった際、遺体や遺骨を葬儀前に埋葬してしまっていたのは、こうした、野次馬となった庶民に遺体や遺骨を冒涜(当の庶民たちにとっては、尊崇の一形態であったかも知れない)されることを防ぐためでもあった可能性も、皆無ではないだろう。

【参考文献】
勝田至『死者たちの中世』吉川弘文館、2003
新谷尚紀監修『日本人の禁忌(タブー) 忌み言葉、鬼門、縁起かつぎ・・・人は何を恐れたのか』青春出版社プレイブックスインテリジェンス、2003

(寄稿)せっぱつまりこ

「屋敷神」としての江戸城内にあった将軍霊廟と、実際に屋敷墓のあった今井城

筆者は以前、江戸城の敷地内(紅葉山と呼ばれたエリア)には亡くなった歴代将軍を祀る「御霊屋(霊廟)」が建てられるエリアがかつてあり、初代家康から6代目までの将軍は個別の霊廟に祀られたが7代目以降の将軍はそれ以前の将軍霊廟に合祀された(なおそれらの御霊屋は江戸城が皇居となったため取り壊され、現存していない)ということについての記事を書いた。
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ハワイ先住民の間でかつて行われた遺骨信仰

前回、筆者は前近代〜近代初頭のハワイ先住民の間で「神聖な葬法」とされた、死者の遺骨を極力形崩れさせないよう細心の注意を払った野焼き火葬法(浅く掘った穴に置かれた遺体の上に薪を積んで上部から点火する)について書いた。そして補足として、ハワイ州は現在でもアメリカの中でも火葬が多く行われる地域の一つであるということにも、言及した。

このことから、ハワイ先住民の間では火葬が忌避されるどころか、むしろ「神聖な葬法」であるとして特に「尊い」とされた人物が亡くなった時にしか、行ってはならないとされた(そして後にそうした一種の宗教的タブーが薄れ、ただ単に“高級な”あるいは“多くの人々が憧れる”葬法とみなされた)のではないかと推定できる。

しかし一方では、信仰上のタブーを犯した者が刑罰として灰と炭になるまで火で焼かれたという記録の存在もあるという。この「タブーを犯した人物が原形を留めなくなるまで焼かれる」ということが、いわゆる火あぶり処刑なのか、それとも他の方法で処刑された死刑囚の遺体を焼いたのかということは、解釈が分かれるふしもある。

そもそも前近代〜近代初頭にハワイ先住民の行った葬法は、時代や地方、どんな神を信仰しているか、当該死者の死因はどんなものであったか、あるいは死者の身分や職業等々によって全く様々であり、「ハワイ先住民の伝統的葬法はこうであった」と一言で言い切ることは、実際には結局できないことである(なお、これは日本の伝統的葬法に関しても大いに当てはまる)。

ただ、こうした「罪深いとされた者の肉体を形が残らないよう焼き払う」ことが実際に行われたのだとしたら、先述した「神聖な葬法としての火葬」の「神聖さ」は「死者の遺体を火で焼く」ことそのものではなく、「死者の遺骨がきちんと原形を留めている」ことによって担保されていたといえるであろう。

こうしたことから考えると、往時のハワイ先住民が「原形を留めた死者の遺骨」を特別に神聖なものと考えていたらしいことが窺えるが、時と場合によっては、彼らはそうした遺骨の一部を一種の信仰対象として自分の身の周りに置き、更に場合によっては釣針などに加工することもあったようだ。

実際、18世紀終わり〜19世紀初めのハワイ王であったカメハメハ1世大王の第二王妃であり、カメハメハ1世の没後は摂政として強い政治的権力を握ったカアフマヌは、彼女の父の遺骨を大切に持っていたと、当時ハワイを訪れた西洋人の記録にあるという。なおカアフマヌは摂政になると、ハワイ土着の神を信仰する敵対勢力に対抗するためプロテスタント系キリスト教に改宗しているが、彼女の改宗後に父の遺骨がどうなったかは、筆者の知る限りでは不明である。
更にいうと、前回に詳しく書いた、形崩れしないよう火葬されたカメハメハ1世の遺骨が葬られた場所が誰にも知られてはいけないとされたのも、一つにはこの遺骨信仰と深い関係がある。

つまり結論からいうと、カメハメハ1世(と、歴代の王を始めとする多くの要人たち)が自分の遺骨を誰か知らない者に触れられたり持ち去られたりすることを忌避したことが、遺骨の埋葬場所を徹底的に秘密にしたことの大きな理由の一つであった。

『神々のハワイ 文明と神話のはざまに浮かぶ島』スザンナ・ムーア著、桃井緑美子訳、早川書房、2004
『ハワイの歴史と文化 悲劇と誇りのモザイクの中で』矢口祐人著、中公新書、2002
『ハワイ・南太平洋の神話 海と太陽、そして虹のメッセージ』後藤明著、中公新書、1997

(寄稿)せっぱつまりこ

遺骨信仰が先か、火葬技術が先か⁉︎ 〜ハワイ先住民の「伝統的葬法」の諸相〜
「神聖な人物」の葬法とされた、往時のハワイの野焼き火葬法

海上の身元不明の死者を「福の神」として祀る習俗について

前近代の日本列島の幾つかの地域では、特に汽水域で溺死者やそれらしい遺体が発見された場合、沖へ突き流してしまうことがしばしばあり、中には江戸時代の江戸市中のようにそのように法律で決められている場合さえあった。
この法や慣習の存在を裏付けるような古記録や川柳や戯作も、幾つか残っている。
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「塔婆山」と死者の魂のゆくえ

日本も含めて世界各地には、人がみだりに入ったり、木を切ったり動物を狩ったりなどすると、祟りがあるという言い伝えがあった山岳・丘陵(以下「山や丘」)がある。中でも日本にある、そうした立ち入りその他をタブーとした山や丘の中には、時々、葬儀文化史から見ても興味深い伝説が、伝わる場所もある。
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