近現代に地方出身者が主要都市部の墓に葬られることは、一種のステイタスでもあった

前回の記事で、明治時代には主要都市部で亡くなった地方出身の住民がとにかく彼や彼女の住居の近くの墓に葬られることよりも、何とかして故郷の墓に葬られることを良しとする風潮が生まれ、折からの鉄道網の発達もそれを強化したため、火葬が少しずつではあるが普及してきたということに言及した。しかし一方では、この「何とかして故郷の墓に葬られることを良しとする風潮」とは異なる傾向も、一部の人々の間には生まれていたということにも言及した。

今回はその、「何とかして故郷の墓に葬られることを必ずしも良しとはしない風潮」について書こうと思う。

近現代に様々な分野で偉大な業績を残した人々はそれこそ様々いるが、中でも東京(いわゆる首都圏を含む)を主な活動拠点とした地方出身の人物の中には、故郷と絶縁した(あるいはそれに近い状況)というわけではないにも関わらず、故郷の墓でなく東京及び近郊の墓に葬られた人物が案外いる。近代型霊園墓地の誕生もそうした動きを後押しした(している)側面があるらしく、かつては郊外とされた地域も含めて都内に点在する霊園墓地には、地方出身の偉人たちの墓が複数みられる。

こうした、遠い故郷の墓よりも東京など彼ら彼女らの活動拠点であった大都市圏の墓に葬られることを良しとする傾向の理由については、それこそ個々人の思想信条や価値観とも密接に結び付いたものであり、完全に全く様々であるとしか言いようがない。

しかし時代背景を考えると、一つには「地方出身者が東京その他主要都市部でそれなりに地位を築き、死後はそのまま自分の活動拠点であった都市の墓に葬られる」ということが、いわゆる「立身出世」を遂げたことの一つの証左のようなものとされ、いわばステイタスとされた側面があったからではないかとも考えられる。明治〜昭和戦前・戦中期にはこの考え方はより顕著であり、実業家よりも政治家や軍人、文化人に強い傾向であったようである。また、特に学術や芸術で活躍した人物の場合には、いわゆる家制度や封建的な因習への抵抗の意味合いも含まれるケースが多いと思われる。

更にいうと、この「ステイタスとしての、主要都市部の墓に葬られること」は、前回少し言及したものの深入りしなかった、「(やはり文化人カテゴリーに入る)福沢諭吉が自分の葬儀で“虚礼廃止”を指向したこと」とも実は密接に結び付いたものだと解釈できる。筆者は前回、福沢の例は当時の知識人によって唱えられた「葬儀での“虚礼”」の辞退としては若干特殊であると書いた。

その「特殊性」とは、福沢が実際には生前既に、彼の遺体が土葬で葬られることを前提とした広さのある墓の土地を大崎にあった本願寺(なお福沢家の菩提寺であった寺院は麻布にあった善福寺であり、葬儀自体はそこで行われた)内に購入し、実際に亡くなった際土葬された点にある。この時期の知識人層の「葬儀での“虚礼”」辞退の多くは、死後に土地を余り多く占領しないことを指向して火葬を希望することも含まれていた。現に第2代代総理大臣の黒田清隆や、福沢と同様いわば日本初の近現代型社会学者ともいうべき中江兆民もこうした「葬儀での“虚礼”」の辞退をしている(なお中江のケースはいわゆる現代日本型「無宗教葬」のはしりともいえる葬儀であったが、それについては他の回で書きたいと思う)が、彼らは火葬されている。

その意味では福沢のケースは、言葉は悪いが明らかに「死後に土地をより広く占領した」ものであり、結局最後の最後でステイタスが重視されていたという点で、「葬儀での“虚礼”」を辞退した知識人の葬送としては「特殊」であったといえるだろう。

【参考文献】
此経啓助『明治人のお葬式』現代書館、2001
勝田至編『日本葬制史』吉川弘文館、2012

(寄稿)せっぱつまりこ

明治〜大正初期の東京での死者の埋葬を巡る諸説について

明治時代の東京では、前近代に比べ死者を火葬することが多くなった。とはいえ現代と比べると圧倒的に火葬率は低く、1905年の時点でも火葬率は58%であった。

ところで、この頃の東京では火葬は広い墓の土地が買えない貧しい庶民の葬法であり、土葬はそれなりに富裕層に属する人々の葬法であったとする指摘がある。実際、明治期に貧困の末に若くして亡くなったものの今では偉大な文学者として知られる樋口一葉や石川啄木は火葬されているが、彼女と彼はまさに「貧しい庶民の死者」として火葬されたケースといえるだろう。

しかし一方では、この図式に当てはめると1905年の東京では42%もの(半数近くの)住民が「それなりの富裕層」の人々であったということになってしまい、当時の東京の実態とは掛け離れたものとなってしまう。

また、ちょうどこの頃に日本に複数回滞在していたイギリス人のリチャード・ゴードン・スミスの旅行記にも、彼が(当時一般に来日外国人はわざわざ見に行きたがらなかった)東京の(当時は郊外とされた地域にある)火葬場を訪れた際のことが記録されているが、そこで火葬される死者には「金持ち」も「貧しい者」もいたということが明記されており、「火葬は貧しい死者の葬法であり、土葬は裕福な死者の葬法であった」とは一概には言うことはできない。

更にいえばこれは少し後の大正初期の例であるが、これまた近代日本の代表的文学者の一人である夏目漱石は雑司ヶ谷霊園に夏目一家の大きな墓を準備できるほどであったが、火葬により葬られている。彼のケースは「広い墓を準備できない貧しい死者としての火葬」でないことは明らかである。

もっとも、明治期の東京で火葬率が前近代に比べ上昇したのは、近代に入って(前近代では、基本的に江戸で亡くなった地方出身の死者は、当該の死者の居住地の近くの寺院が葬儀・埋葬を行うことが一般的であり、「故郷の墓」への執着は決して高くなかった)他の地域を仕事や生活の基盤とした人々も、亡くなった際には「故郷の墓」に埋葬されるのを良しとする傾向が強くなったこととも密接に結びついていた(つまり遺骨となることにより、折から発達した鉄道によって故郷に持ち帰ってもらうことが期待できた)。ただ一方、この「故郷の墓に葬られるのを良しとする」傾向とはまた異なる傾向も近代に入って生まれたが、今回は触れない。

スミスが報告した火葬される富裕な死者も、あるいは東京での仕事により大金を作った地方出身者であったかも知れない。

とすると、「火葬はどちらかといえば貧しい死者の、土葬はどちらかといえば富裕な死者の葬法」というのは東京(江戸)出身の住民か、地方出身であっても何らかの理由で故郷との関係が断絶した(あるいはそれに近い状態の)住民に限られた傾向であった可能性もある。現に先述の「貧しい庶民の死者」として火葬された二人の文学作家の例でも、樋口一葉は東京出身であったし、石川啄木は岩手県出身であったが様々な事情により一家全員で故郷との関係が断絶したに等しかった。

ただ、夏目漱石は東京出身であり広い墓の土地を持つほどの経済力を有していたものの火葬されていたが、彼の例は必ずしも一般的なものでない可能性が高い。これについても、筆者は色々と興味深く思う。

更にいえば、この時代の(特に都市部の)葬儀はしばしば派手な演出を伴う葬列がつきものであった(しかもそれは次第に庶民層にも取り入れられ、現在の葬儀社による葬儀の原型となった)一方、いわゆるインテリ層の人々の中にはそうした演出を「虚礼であり非合理なもの」として辞退する傾向も生まれていた(そうした知識人の中には、『学問ノススメ』の著者であり慶應義塾大学の創設者でもある福沢諭吉がいるが、彼のケースはまた若干特別なものなので今回は深入りしない)。

そのため、庶民層とはいえ多少なら経済的に余裕のある死者の場合、土葬できる墓の土地を取るか、火葬した遺骨にしか対応できないほどの狭い墓しか準備できなくとも華やかな葬列の演出を取るかということになった際には、後者が選ばれることが多かった可能性もある。

【参考文献】
此経啓助『明治人のお葬式』現代書館、2001
勝田至編『日本葬制史』吉川弘文館、2012
横田睦『お骨のゆくえ 火葬大国ニッポンの技術』平凡社新書、2000
リチャード・ゴードン・スミス、荒俣宏翻訳・解説、大橋悦子共訳『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』小学館、1993
異なるハンドルネームで執筆した拙記事2点
明治時代に来日していた、あるイギリス人が見た大阪と東京の火葬の違い
明治に国内で広がりをみせた火葬。お隣の中国はどうだったのか調べてみた。

(寄稿)せっぱつまりこ