清朝末期の墓荒らしが日本葬儀文化史にもたらしたもの【日本の葬儀歴史】

日本での葬儀はどのような歴史を辿って来たのであろうか?

清朝末期の中国は動乱の時代であり、葬儀・埋葬文化史的に見れば墓荒らしが多発した時代でもあった。しかも、富裕層の墓を荒らして副葬品の金銀財宝を狙うのとは、異なるタイプの墓荒らしが目立った。
具体的には、墓を暴いて遺骨の身代金を要求したり、清朝軍の兵士が反乱軍の人々の墓を暴いて遺体・遺骨を損壊したことなどが挙げられる。

なぜ、そのようなことが起こったのか。様々な理由があるが、一つには、「故人の遺体や遺骨へのこだわり(=敬意)」を、いわば逆手に取ったということがいえる。当時の清朝では、故人の遺体・遺骨への敬意が強いことが「常識」であり、「極めて普通」のことであった。

だからこそ、「故人(先祖)の遺骨」を「人質」に取って、その遺骨の主の子孫から身代金を脅し取る発想や、「敵対者」の遺体・遺骨を、敢えて損傷させる発想が生まれたともいえる。そして実は、日清戦争によりそうした「故人の遺体・遺骨へのこだわりが強い社会ゆえの墓荒らし」に直面したことが、前近代には「遺体・遺骨へのこだわり」が近現代に比べ少なかった日本に、「遺体・遺骨へのこだわり」をもたらした面も多い。

1894年~1895年に起こった日清戦争は、近現代日本が経験した初の大規模な対外戦争であった。その際、海外の戦地で戦死した兵士や軍関係者の遺体をどうするかということが、重要な問題となった。
その際に、火葬が奨励(後に原則化)されたのであった。
初めは、伝染病や悪臭を防ぐための、いわば衛生的な処置として採用されたという。現地で(野焼きまたはそれに近い火葬法で)火葬された戦死者の遺骨は、一度そこで埋葬されるのが一般的であった。

「一度」そこで埋葬される、と書いたが、ここでの埋葬は、あくまで仮埋葬であった。戦争が終わって完全に平和になったら(多くの場合一定の年月の後)回収され、国内の軍の墓地に埋葬されるのが前提ということであった。
しかし、仮埋葬され回収・改葬を待つ間、戦地に残された日本軍戦死者の仮墓が、現地の人々に暴かれ荒らされる事態が起こっていた。ここでの墓荒らしは、まさに「敵対者の遺体・遺骨を、敢えて損傷させる」タイプの墓荒らしであった。

この種の「敵対者の墓所や遺体への冒涜」は、洋の東西を問わず、特に近代になる前には、人類史上普遍的にみられたことであり、日本でも行われた。更には、日本を含めて様々な国で前近代に行われた、捕虜や死刑囚の首が斬られ晒される「晒し首」も、「敵対者の遺体への冒涜」としての側面がある。

ゆえに、一部の人々がいうような、「日本人は他の民族に比べ、死者への敬意が強いため、敵対者の墓所・遺体への冒涜の歴史はなかった」という説は、実際には決して正しくないのである。

しかしながら、日清戦争の際、中国の戦地に仮埋葬した戦没兵士の墓が荒らされたこのケースは、「日本人」と「外国人」の間で、しかも近代型の対外戦争を背景にして起こったことであった。そのため、このことは当時の日本人、特に戦没兵士の遺族や、仲間の兵士の墓が荒らされるのを目の当たりにした出征兵士にとっては、今までの「日本人」同士での墓荒らしに比べ、よりショッキングなニュースであったに違いない。

こうしたことから、戦地での仮埋葬は下火になり、戦死者の遺骨や遺品は国内に送られることが、次第に一般化していった。そしてそうした中で、戦死した肉親の遺骨を受け取ることになった人々も出てくる。彼ら遺族も、遺骨を目の当たりにしたことによって悲しみを新たにすると同時に、遺骨が現地の人々に傷つけられなかったことを、せめてもの慰めにしたことだろう。

いってみれば、ある意味では「故人の遺体・遺骨への価値観」が当時の日本よりも強い国との戦争が、いわば「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、日本に「遺体・遺骨へのこだわり」をもたらしたとも言える。

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(寄稿)せっぱつまりこ

(参考)
浜井和史『海外戦没者の戦後史 遺骨帰還と慰霊』吉川弘文館、2014
ジョナサン・D・スペンス、佐藤公彦訳『神の子洪秀全 その太平天国の建設と滅亡』慶應義塾大学出版会、2011

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