徳川将軍家も一種の「両墓制」と思われるしきたりを持っていた

仙台藩を築き、江戸時代の終わりまでそこを統治した大名の伊達家には、18世紀初頭に「時代遅れであり無益」とされて廃止されるまで、藩主や藩主夫人が亡くなった際「灰塚」を築くしきたりがあった。
この「灰塚」は、藩主・藩主夫人の棺を焼いた際の灰を埋めた塚である。彼らが死去した折、葬儀が行われる前に遺体や遺骨を埋葬してしまい、遺体(あるいは遺骨)の入っていない棺のみで葬儀を執り行うことが一般的であった。
仙台市内に現存する灰塚としては、筆者の知る限りでは初代藩主政宗と彼の母保春院のものがある。

この灰塚がなぜ造られたかについては、まだわからない点が多い。ただ、筆者は以前「これは一種の『両墓制』ではないか」という仮説を立てたことがある。
両墓制とは、簡単にいうと遺体や遺骨を実際に埋葬した「埋め墓」と、墓参りなどで故人を供養する象徴としての「参り墓(詣で墓などとも)」という2つの墓を築くしきたりである。

ところで実は、この両墓制ではないかと思われるしきたりを持っていた近世の支配者層の人々は、伊達家だけではなかった。
当時の日本の実質的な君主であった徳川将軍家も、まさに両墓制めいたしきたりを有していたのであった。

明治維新により江戸城が皇居となったため取り壊されてしまい現存していないが、江戸城の敷地内には、亡くなった将軍を祀る「御霊屋(霊廟)」が建てられるエリアがあった。
そのエリアは、現在「紅葉山」とよばれるエリアで、初代将軍家康を始め歴代将軍の霊廟が建設されていた。
但し18世紀の初めに、時の8代将軍吉宗がこれ以上将軍個人の霊廟を建てることを禁じたため、7代目以降の将軍はそれ以前の将軍霊廟に合祀された(そういえば伊達家で灰塚が廃止されたのも、これと同じ頃である。何らかの関係が、全くないとはいえなさそうである)。

この徳川将軍家の江戸城敷地内の霊廟で興味深いのは、いわゆる「屋敷墓」的な側面があることである。
「屋敷墓」とは、東日本、特に関東地方〜中部地方によくみられた墓制の一つで、個々の家の敷地内や敷地の隣接地など、日常生活を送る空間に隣接した場所に位置する墓を指す。
ただ、一般的な屋敷墓が、一般的な両墓制では忌避された遺体(遺骨)を埋葬したものであるのに対し、江戸城敷地内の徳川家霊廟は遺体(遺骨)が埋葬されない、純粋な「参り墓」である。
この点では、江戸城内の徳川家霊廟は、これまた東日本に多い個々の家の敷地内に祀られる守り神「屋敷神」的な側面もあるのではないかと、筆者は思う。

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岩田重則『「お墓」の誕生 死者祭祀の民族誌』岩波新書、2006
竹内正浩『地図と愉しむ東京歴史散歩 都心の謎篇』中公新書、2012
福田アジオ『番と衆 日本社会の東と西』吉川弘文館、1997

(寄稿)せっぱつまりこ

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