沖縄文化圏で戦後に火葬が普及した背景には、女性の人権を守る意味もあった

第二次世界対戦後の日本列島では、特にいわゆる高度経済成長期頃以降に一般市民層にも死者の遺体を火葬する習慣が普及(あるいは再普及)していった。

その理由については様々あるが、一般に狭い土地をより効率的に利用するという意味や、衛生上の理由などが火葬の普及や再普及の理由であると指摘されている。そうした中でも、沖縄や奄美群島など(以下「沖縄文化圏」)では、「女性の人権のため」という側面も決して見逃せない。このことは、女性史研究の点でも重要だといえる。

そしてそのことがより具体的に問題として取り上げられた例としては、沖縄本島にある大宜味村の喜如嘉地域のケースが挙げられる。

なぜ、火葬の普及が女性の人権を守ることにつながったのか。その背景には、この地域でかつて行われてきた「洗骨」のしきたりがある。

往時の沖縄文化圏では、死者が出ると遺体を洞穴を利用した墓などに仮埋葬し、白骨化した頃に遺族などが遺骨を取り出して水で洗い清め、一族の共同墓に納骨するしきたりがあった。

そして重要な点は、この「死者の遺骨を取り出し、洗い清めること」は時代や地域、身分などにより勿論差はあるが、遺族の中でもしばしば女性の務めとされてきた歴史があるということである。

これが、特に戦後すぐの大宜味村では結果的に女性を抑圧するしきたりとなってしまったというのである。それには、当時の大宜味村の社会的状況も深く関係する。

大宜味村は沖縄本島北部にあるため、戦時中の沖縄戦で激戦地となった本島南部から多くの避難民が移ってきた。折からの伝染病流行や栄養不足により、そうした避難民や地元の人々が次々と亡くなったため、村の共同墓地(仮埋葬墓。亀甲墓という、沖縄文化圏の伝統的な墓)がすぐに満員になり、通常より早い時期に先に仮埋葬された遺体(遺骨)を洗骨し、どんどん正式に埋葬していくことが求められた。そのため、住民女性たちは十分に白骨化していない遺骨であっても洗骨しなければならず、大変過酷な任務と化してしまったということが、この大宜味村で女性を中心に火葬場を希望する運動が起こり、1951年に火葬場設置が実現したことの大きな理由であった(なお補足すると、那覇市には大正期には既に近代型火葬場が設置されていたが、沖縄戦で破壊され、いつ再設置されたかは筆者は調べてはいない)。

なお、大宜味村で火葬場が建設された際の最初の火葬される死者がもし「若い」死者であったら、祟りとみなされ利用が続かなくなると心配されていた。しかし火葬第一号の死者は高齢の女性であり、火葬された遺骨も「白くきれい」であったので人々は満足したという。こうした当時の状況からは、火葬場を希望する動きがあるとはいえ、矢張り今までその地域では馴染みのなかった火葬の習慣には、住民の不安も根強かったということがわかる。

酒井正子『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』小学館、2005
関沢まゆみ・国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 盆行事と葬送墓制』吉川弘文館、2015

(寄稿)せっぱつまりこ

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください