上野公園の西郷隆盛像と仁王信仰とは

1898年、東京・上野公園に建てられた西郷隆盛銅像は、今も観光名所の一つとして、またランドマークとして有名であり、日本でも特に人気の高い銅像の一つである。

ところでこの西郷像には、大変興味深いエピソードがある。
建造直後から第2時世界大戦直前に至るまでの間、しばしばちり紙などを噛んで丸めた紙玉が投げ付けられ、像のあちこちに付着していたというのである。
この紙玉投げは当時も、現代でいうところの時事ネタギャグの題材となっていたらしく、1907年に出版された『滑稽徳川明治史』という本でも、西郷像の足元で男女学生のカップルがデートをし、女学生が紙玉を西郷像に投げる場面がある。

スポンサーリンク


この『滑稽徳川明治史』では、紙玉投げはただの悪ふざけとして描写されていたが、実際には単なる悪ふざけではなく、一種の民間信仰として紙玉投げが行われていたのであった。
更にいうと、西郷像への紙玉投げは、江戸時代から盛んになった仁王信仰の延長線上にあったのだともいえる。
浄土真宗以外の多くの日本仏教の宗派では、ある程度以上の規模の寺院ではしばしば山門が設けられており、そこには一対の仁王像が祀られていることがある。
こうした山門を、仁王門という。
この仁王(金剛力士とも)は仏教の守護神であり、江戸時代に入る前は、基本的に単独での信仰を集めることは、ほぼなかった。
ところが江戸時代に入ると、仁王門がある寺院の本尊とは独立した神として、仁王が人々の信仰を集めるようになる。
背景には、人々が神仏に祈る目的が、死後の幸福よりもこの世での幸福を願うことに変わっていったこともある。
仁王像は、いかにも力強い見た目もあり、多くの場合健康の守護神として信仰を集めた。
これも、この世での幸福を祈った近世の人々らしい信仰である。
そして、その健康を祈願する方法が、特に江戸・関東での多くのケースでは、まさに紙玉投げだったのである。
自分の体の一部、つまり治癒を願う病気や怪我の箇所や、より健康を保ちたい箇所と同じ部分に付着するよう、仁王像に紙玉を投げ付けたのであった。
こうした祈願法は、当時の戯作や川柳などの題材にもなっている。
西郷像への紙玉投げは、こうした近世的な仁王信仰の延長線上にあったのである。
更に興味深いことに、西郷像の建つ上野公園は、江戸時代には寛永寺の仁王門があり、ここの仁王像は江戸市中でも名高く、既に元禄時代の1698年に著された『初音草咄大鑑』に、多くの人々が紙玉投げをする場面が描かれている。
その寛永寺の仁王門が戊辰戦争で焼失した後、いわば新しく上野に現れた「仁王像」として、西郷像は庶民の信仰の対象となったというわけである。西郷像のいかにも力強く、にらみの利いた見た目も、仁王像を連想させたことだろう。
西郷隆盛像への紙玉投げも、江戸時代の仁王像への紙玉投げ同様、基本的に健康を祈願するものであったと考えられる。
しかし、より時代が下った1935年には、「投げた紙玉が、西郷像の鼻に当たると出世する」といわれていたようであり、時代の変化がうかがえる。

(参考)
ウィキペディアの「寛永寺」の項目
平瀬礼太『銅像受難の近代』吉川弘文館、2011
渡辺信一郎『大江戸庶民のあっと驚く生活考 意外な風俗、しきたり、信仰心がわかる本』青春出版社、2003

(寄稿)木皿さらさら

“上野公園の西郷隆盛像と仁王信仰とは” への2件の返信

コメントを残す