近世以降の供養碑と女性の関係【日本の葬儀歴史】

中世の日本、特に東日本では、不特定多数の人々の供養のための石碑がよく建てられた。そしてそうした「全ての人に開かれた」供養碑は、戦国時代後期〜江戸時代に庶民層にも個人・夫婦単位の墓を建てる余裕が生まれることにより衰退し、結果として、現代的な意味でいう「無縁仏」の概念が誕生した。

しかし厳密に言えば、ある特定の人々の間では、江戸時代以降も(地域によっては近代に入っても)こうした「全ての人のための」供養碑が建立され続けてきたのである。その特定の人々とは、女性限定の、あるいは女性を主要メンバーとする講(現代でいう互助会)である「女人講」のメンバーの女性たちであった。彼女らの建てた供養碑も、もっと正確に言うなら「全ての女性(や子ども)のための」供養碑である。

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近代になる前には、現代日本とは比べ物にならないほど出産のために亡くなる女性や死産する子どもが多かった。また、身ごもっても様々な理由で堕胎したり、「間引き」や「子返し」といって、無事出産しても様々な理由で育てられない場合には、その子どもを密かに捨てたり殺してしまうことも少なくなかった(なお、こけしはこうした密かに命を奪われた子どもの供養として作られたのが始まりだという説があるが、それはトンデモ説の類なので信じないようにしよう)。

そうした往時の女性や子どもを巡る過酷な状況の当事者である、あるいは当事者になる可能性のある(あった)女性たちはこれらのことを嘆き、また罪の意識を感じた。そして自分たち、そしてそうした悲惨な死を遂げた女性や子どもの死後の救済を祈るために供養碑を建てることがはやったのであった。女人講の目的の一つは、そうした供養碑の建立であった。

現代でいう水子供養とも重なる点が多いが、この時代にはそれが匿名性を持ちながらも、ある意味現代よりもオープンに行われることにより、誰にも相談できずに悶々と悩んでしまうことを防いでいた側面もある。
悲劇的な死を遂げた女性や子どもを供養するだけでなく、子どもを授かることや安産を祈願するために石碑が建てられることもあった。

これらの近世以降の女性たちによって建てられた供養碑には、筆者の知る限りでは遺骨が分骨されて埋葬されたケースはない。そこに遺骨の一部を埋葬することで、仏縁を得られると信じられている聖地ではなかったことがわかる。この点は、現代型の慰霊碑・祈念碑に近いと言えよう。

近世以降の女性たちによって建てられた石碑は言ってみれば、全ての人のための供養碑であり身近な聖地でもあった中世の石碑から、近現代に建てられた慰霊・祈念・感謝などのための石碑に至るまでの過渡期の存在でもあったのである。

(寄稿)木皿さらさら

佐藤弘夫『死者のゆくえ』岩田書院、2008
西海賢二『江戸の女人講と福祉活動』臨川選書、2012

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