「神聖な人物」の葬法とされた、往時のハワイの野焼き火葬法

以前筆者は、鳴海徳直氏が著書『ああ火葬』(新潟日報事業社、1995)で「日本古来の伝統的火葬法」であるとしている、遺骨が形崩れしないよう地面を少々掘り下げて薪を敷き詰め、そこに故人の遺体を置き、その上に薪や藁を被せて上部に点火する火葬法は、実際には近代以降の一時期・一地域の例に過ぎなかったのではないか、と仮定した。

その後しばらくして、筆者が偶然読んでいた本の中に、鳴海氏が「日本古来の伝統的火葬法」であるとしている火葬法とそっくりな火葬法が実際に行われた例について言及するくだりがあった。そして結論からいうと、鳴海氏が「日本古来の伝統的火葬法」であると主張している火葬法は、実はそもそも日本のものではなかった可能性さえある。

その火葬法は、『神々のハワイ 文明と神話のはざまに浮かぶ島』(スザンナ・ムーア著、桃井緑美子訳、早川書房、2004(以下『神々のハワイ』))という本に書いてある。

著者のムーア氏は『神々のハワイ』の中で、この火葬法が行われた例を2例挙げている。一つは、18世紀後半にハワイ島に到着したイギリスのジェームズ・クック(いわゆるキャプテン・クック)が、信仰を巡る様々な誤解とそれによるトラブルのため島民に殺された際の例であり、もう一つは19世紀前半に活躍したハワイ王カメハメハ1世大王の例である。

1779年にクックがハワイ島の先住島民に殺害された経緯については諸説あるが、先述のように信仰を巡る様々な誤解が引き金になっていたことは、ほぼ確実であるとされる。そして実はハワイ島の先住島民たちは、クックの遺体を鳴海氏が「日本古来の伝統的火葬法」としている火葬法とそっくりな方法で火葬し、遺骨が形崩れしないよう丁寧に祀った(この「遺骨を形崩れさせない」という点も、鳴海氏が「日本古来の火葬法」と称する火葬法と共通する。実際の「日本古来の火葬法」では、むしろ遺骨の形崩れはごくごく普通であったともいわれ、実際それを裏付ける記録や風習もある)というのである。
これはクック殺害が民俗学や文化人類学でいうところの「異人殺し」「来訪神殺し」の一種であったということの裏付けとされるが、ムーア氏によればこうした葬法は「最高の礼をつくし」た葬法だったという。

もう一例であるハワイ王カメハメハ1世は1819年に亡くなっている。彼の遺体も矢張り、遺骨の形崩れを防ぐために浅い穴の中に寝かされ、上から軽く砂を掛けられた状態で火葬された。火葬の完了までには10日間かかったという。そして火葬が完了しても王の遺骨には肉が残った状態であったらしく、カメハメハ1世の葬儀を司式した神官によって残った肉が遺骨からこそげ取られ、海にまかれた。

これは当時のしきたりに則った葬法であるが、往時の沖縄文化圏や九州南部に存在したいわゆる「洗骨」という葬法との類似点(なお、こちらでは土葬した遺体を改葬した)が複数あり、非常に興味深い。沖縄文化圏及び九州南部の伝統的葬法との類似といえば、こうして形崩れしないよう細心の注意を払われて火葬されたカメハメハ王の遺骨は、誰にも知られないよう洞窟(どこの洞窟であるかも秘密とされたため、詳細は不明である)に埋葬されたが、これも沖縄文化圏にかつてあった「洞穴墓」と共通点が少なくない。

なお現在でもハワイ州は、アメリカ各州の中でも特に火葬がよく行われる州の一つであるが、それは火葬が古来「聖なる葬法」とされてきた歴史があったことと、無縁ではないだろう。

酒井正子『奄美・沖縄哭きうたの民族誌』小学館、2005

前近代日本でも、死者の遺体の積極的保存が行われた可能性がある

平安時代、天皇や高位の貴族が亡くなった際には、遺体は火葬されることが多かった。しかし、彼らの中にも、火葬を拒否し、土葬あるいは葬祭殿(御霊屋)への安置葬を希望した人々がいた。

そして、これは現在の日本では、特殊な場合でない限り死者は火葬されるため、忘れられがちであるが、そもそも日本は歴史的に見れば、火葬が非一般的であった時代の方が、圧倒的に長いのである。
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海上の身元不明の死者を「福の神」として祀る習俗について

前近代の日本列島の幾つかの地域では、特に汽水域で溺死者やそれらしい遺体が発見された場合、沖へ突き流してしまうことがしばしばあり、中には江戸時代の江戸市中のようにそのように法律で決められている場合さえあった。
この法や慣習の存在を裏付けるような古記録や川柳や戯作も、幾つか残っている。
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タブー視された、偶然出土した過去の時代の遺骨

清朝末期の大衆向け絵入り新聞『点石斎画報』の中に、興味深い記事がある。

それは、江蘇省にあった陶磁器の産地「趙家窯」で、古代の貴人のものらしい墓が、偶然3基見つかったという記事である。

趙家窯のとある窯業従事者が、資材である粘土を掘っているうちに、偶然3基のレンガ造りの古代の墓を見つけた。そこからは大量の古銭や刀銭(古代中国のコインの一種。刀の形をしている)、宝石で作られた鏡、銅鏡、宝剣、様々な陶器が発見された。そして骨董鑑定家によって、これらは皆、秦王朝や漢王朝以前のものであるらしいとわかった。
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徳川将軍家も一種の「両墓制」と思われるしきたりを持っていた

仙台藩を築き、江戸時代の終わりまでそこを統治した大名の伊達家には、18世紀初頭に「時代遅れであり無益」とされて廃止されるまで、藩主や藩主夫人が亡くなった際「灰塚」を築くしきたりがあった。
この「灰塚」は、藩主・藩主夫人の棺を焼いた際の灰を埋めた塚である。彼らが死去した折、葬儀が行われる前に遺体や遺骨を埋葬してしまい、遺体(あるいは遺骨)の入っていない棺のみで葬儀を執り行うことが一般的であった。
仙台市内に現存する灰塚としては、筆者の知る限りでは初代藩主政宗と彼の母保春院のものがある。
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「塔婆山」と死者の魂のゆくえ

日本も含めて世界各地には、人がみだりに入ったり、木を切ったり動物を狩ったりなどすると、祟りがあるという言い伝えがあった山岳・丘陵(以下「山や丘」)がある。中でも日本にある、そうした立ち入りその他をタブーとした山や丘の中には、時々、葬儀文化史から見ても興味深い伝説が、伝わる場所もある。
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近現代社会の到来期の歴史ある都市部での墓地の移動について

近年の日本では、転居やその他個人の家庭の事情などのため、個人や家(「○○家代々の墓」のようなタイプ)の墓の移動(いわゆる「改葬」)を希望したり、実際に実行する方は、案外多いものである。
しかしながら、例えば寺院などの墓地や霊園のような、一般に親戚同士ではない複数の家族(の死者)が集団で葬られているタイプの墓地全体の移動は、現代日本も含めた近現代のいわゆる先進諸国とされる国々では、極めて珍しい傾向にある。
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実際には信仰の一環であることも多かった、前近代日本で多発した「神社仏閣への落書き」

日本の近代の始まりである明治時代が到来すると、様々な近代型の法律が作られたが、その中には、「神社や寺院に、いたずら(具体的には物を壊したり、落書きしたりすること)をしてはいけない」というような内容のものも、実はあった。当時、各地に発足した出版社から、一種の学習漫画ともいうべき絵入りの新法律説明書が複数出版されているが、その中にも、この場面は多く描かれている。
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日本救世軍のリーダー山室軍平が死後に献体をしたもう一つの理由【日本の葬儀歴史】

プロテスタント系キリスト教の一派である日本救世軍を、大正〜昭和戦前期に率いたリーダーの一人であった牧師(救世軍用語では「士官」)の山室軍平は、1940年に没した折、東京大学医学部に自主的に献体をしている。
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