中世日本の貴族も、火葬をタブーとすることがあった

中世の日本では、現代とは異なり火葬は大変高級な葬法であり、天皇や上流貴族・上流武士など、貴人と呼べるような高い身分の人々に、ほとんど独占されていた。

ところで、平安時代の貴族で小倉百人一首にも和歌が採用された藤原義孝は、若くして亡くなったが、伝説によると、再びこの世に蘇って読経をしたいので、肉体を失わないよう火葬しないことを望んだという。
この逸話については以前少し言及したが、実は、義孝本人ではなく彼の妻や義父の葬儀・没後供養をめぐる一連の逸話(これは伝説ではなく、歴史的により信憑性の高い当時の記録『権記』にある)が、義孝火葬忌避伝説の元ネタ(の一つ)である可能性もある。

『権記』によると、義孝夫人は995年に死去している。義孝夫妻の遺児で偉大な書道家でもあった藤原行成は、母の遺体を火葬しようとしたが、義孝夫人の父(つまり行成の母方の祖父)源保光は、それを禁じた。
そのため行成は、平安京の北山に「玉殿」という建物を建立し、そこに母の遺体を安置した。
また、保光も同年亡くなり、孫の行成は遺体を玉殿に安置した。
そして、それから16年後の1011年、行成は母と祖父の遺体を火葬し、灰となった遺骨(当時の火葬技術では、遺骨はほとんど原形を留めなかったといわれる)を鴨川に散骨した。

この逸話の中で、源保光が彼の娘・藤原義孝夫人の遺体を火葬することを禁じた理由は、詳しくは語られてはいない。
義孝火葬忌避伝説のように、復活信仰によって火葬を忌避したのかどうかも、わからない。
また、最終的に藤原行成が母と祖父の遺体を火葬し、鴨川に散骨するに至った理由についても、謎に包まれている。
そして、彼が自分の母と祖父の遺体を結局火葬し、更に遺骨を散骨したことで、不孝をしたと非難されたという話も、筆者の知る限りではない。
とかく、この一家が行った葬送儀礼は、当時の貴族としては相当特殊なケースだったようであり、謎だらけである。

ただ、保光が娘の遺体を火葬することを忌避したことから、当時の貴族にとっても、時と場合によっては、火葬はタブーとされることがあったということがうかがえる。
そしてその火葬のタブー視が、義孝火葬忌避伝説の背景には、確実にあるといえよう。

なお、源保光父娘の遺体は、16年後に火葬されるまでのあいだ、玉殿に安置されている。
このことから、もっと後の時代の異なる地域の例ではあるが、岩手県の平泉にある中尊寺金色堂に納められた奥州藤原氏の歴代当主のミイラ化遺体を思い出す方もいることだろう。
この奥州藤原氏のミイラは、人為的に腐敗防止処置がされたのかどうかは、不明である。
ただ、もし奥州藤原氏のミイラにそうした腐敗防止処置がされていたとしたら、保光父娘の遺体も、同じように腐敗防止処置をされていた可能性がある。

このようなケースがあったことからも、「日本では、火葬は抵抗なく取り入れられた。少なくとも、身分の高い人々にとってはそうであった」という俗説は、決して正しくはないということがわかる。

スポンサーリンク


(寄稿)せっぱつまりこ

(参考)勝田至編『日本葬制史』吉川弘文館、2012

コメントを残す