日本にもあった「火葬されるとこの世の肉体を失うので復活できない」という信仰

よく、「イスラム教やキリスト教(特にカトリックや正教会)では、死後の楽園で肉体が復活するという信仰があるため、伝統的に火葬を忌避する傾向が強い。
しかし、日本の伝統宗教にはそうした信仰がないので、火葬が抵抗なく採用された」という説が語られることがある。しかし、この説は前半は別として、後半はおかしな点が幾つかある。

そのおかしな点の一つが、「日本の伝統宗教には、死後の肉体の復活の信仰がない」というくだりである。
これは、正確にいえば正しいとはいえない。
いわゆる「日本の伝統宗教」には、神道や仏教の枠組みだけでは捉えられない信仰も、多く存在する。
そしてその中には実は、「肉体の復活の信仰」と呼べるような考え方も存在した。
但し、ここでの「肉体の復活」は、死後の世界での復活ではなく、この世での復活であった。

中世の様々な伝説を読むと、陰陽師などが亡くなった(特に悲劇的な死を遂げた)人の遺骨を拾い、特殊な術を使って、その遺骨の主を生きていた時の姿で復活させるくだりが、結構ある。

更には大幅に後世の作品であるが、歌舞伎『加賀見山再岩藤』にも、これらの場面と似たくだりがある。
一度討たれて野ざらしの白骨死体となった悪役の女性岩藤が、自分の骨を一箇所に集めることで肉体を復活させる場面である。
また、中世の有名な伝説の一つである「小栗判官」では、主人公の小栗判官と彼の家来が敵対勢力によって毒殺される。
しかし小栗判官は結局復活するが、家来は復活しなかった。
なぜなら、小栗判官は土葬されたが、家来は火葬されこの世の肉体を失っていたからである、と説明されている。

この、「火葬された死者は、この世の肉体を失っているので復活できない」というくだりは、前近代日本の死生観の多様性・重層性を示す、大変重要な部分である。
そういえば、中世伝説の甦った死者たちも歌舞伎の岩藤も、ことごとく火葬されていない。
火葬されてさえいなければ、例え遺体が白骨化しても、「この世の肉体」は失われてはいない、というわけである。

更にいうとこれも伝説であるが、こういう逸話もある。平安の貴人であった藤原義孝という人物は、疫病のため若くして亡くなったが、その際「復活して読経をしたいので、火葬しないでもらいたい」と遺言したという。
死因が疫病である(とされる)だけに、彼の願いが聞き入れられたかはわからない。
ただ、とにかくこうした逸話があることからも、「火葬されると復活できない」という信仰が、前近代の日本にもあったことがうかがえる。

(寄稿)せっぱつまりこ

(参考)
小松和彦『安倍晴明「闇」の伝承』桜桃書房、2000
荒俣宏『歌舞伎キャラクター事典』新書館、1987

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