前近代の日本で行われた野焼き火葬法に関する異説と、その信憑性

近代以前〜近代の初期までの日本で行われていた火葬法は、高位の人々の遺体を火葬する場合でも、いわゆる野焼きまたはそれに近いものであった。従って、火力の微調整はできなかったし、そもそもしようともしなかった。

そのため、故人の遺骨は、基本的に原型を留めず粉末状の灰となるのが一般的であり、現代の日本で盛んな「遺族などによる骨上げ」の風習も、実は新しい時代に可能となったものではないかという指摘が、島田裕巳氏などによってされている。そして、その指摘を裏付けるような記録も、中世から明治時代に至るまで、幾つかみられる。
一方、「日本では昔から、遺骨の原型が残ることを志向し、且つ悪臭や煙を出さない工夫がされてきた」という指摘がある。この指摘は、火葬炉の開発・改良で活躍している鳴海徳直氏によるものである。
しかしながら、結論からいうと、実際にはこれは近代の一時期・一地域の例を「日本古来の例」に拡大解釈したものであり、結局「作られた伝統」の一種に過ぎない。
鳴海氏は、著書『ああ火葬』(新潟日報事業社、1995)で、このように書いている(同書89〜90ページ)。

後世長く伝えられた日本の古い火葬の歴史は、ほとんど野焼きの形式で進んできました。数十束の薪や藁などを隣組親類で持ち寄り、二〜三メートル四方に深さ三十センチくらいの穴を掘って、薪の一部を丁寧に敷きつめ、御遺体を安置し、上に残りの薪や藁などを覆うように積み重ねます。柳の小枝で点火された薪は静かに燃えながら、およそ一晩かかって、真っ白な形の崩れの少ないきれいな御遺骨になります。また地面に対して低い位置に御遺体が置かれているのも、御遺骨がバラバラにならないための優しい工夫です。

ここで鳴海氏は、「日本における野焼きの例」と、「諸外国における野焼きの例」の図を挙げ、諸外国に比べ日本の野焼きは「優しい」ものである、と書いている。
しかし、そもそも本当にこの火葬法が「優しい」と言い切れるかは別にしても(火葬をタブーとする地域や宗教宗派では、多くの場合火葬自体が「優しくなく、恐ろしい」ものとされる。現代の日本でも、高齢者の間にそんな感覚がほのかに残っている地域や宗教宗派もある)、鳴海氏が報告するところの「日本の古い火葬の歴史」とは、決して古くからの伝統ではない。
この火葬法は、「隣組」という言葉が使われていることからも推定できるが、近代に入ってから、それも昭和戦前期〜戦中及び終戦直後の時期の野焼き式火葬法である可能性が高い。また、後述するような例もあり、更にいうと、日本の一部の地域でのみ行われた火葬法であった可能性も、否定はできない。
それ以前の火葬法では、例えば幕末に来日したイギリス人のシルバーが『日本のマナーと習慣のスケッチ』で描いた絵にあるように、穴を掘らず薪を積んでその最上部に棺や遺体を置き、棺や遺体は薪などで覆わない形式が多かった。また着火は、鳴海氏が報告している例とは異なり、下部からの着火が一般的であった。
そして近現代に入ってからも、鳴海氏が報告するような野焼き火葬法ではなく、それ以前のような火葬法を続けていたケースは、決して少なくなかった。現に、太平洋戦争末期の空襲や原爆投下で亡くなった大勢の人々の遺体を、野焼き法で火葬する光景を描いた絵が、生き延びた人々によって描かれているが、そうした絵ではしばしば、遺体は薪を積んだ上に置かれており、下部から着火されている。
また鳴海氏は、日本の伝統的な野焼き式火葬法では、悪臭や煙が余りというか、ほとんど出なかったかのように報告している。
しかし実際には、それを裏付けるような記録はほぼない。逆に、それを否定するような記録の方が、圧倒的に多く残されている。
例えば、江戸時代には将軍から庶民までが、悪臭や「穢れた煙」の発生源になるとはっきり言い切って火葬をタブー視した記録が、幾つかみられる。もし、本当に鳴海氏の報告の通りに、前近代日本で行われた火葬法は悪臭や煙をほとんど出さないものであったのなら、そうしたこともなかったはずである。

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勝田至編『日本葬制史』吉川弘文館、2012
島田裕巳『墓は、造らない 新しい「臨終の作法」』大和書房、2011

(寄稿)せっぱつまりこ

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