前近代日本でも、死者の遺体の積極的保存が行われた可能性がある

平安時代、天皇や高位の貴族が亡くなった際には、遺体は火葬されることが多かった。しかし、彼らの中にも、火葬を拒否し、土葬あるいは葬祭殿(御霊屋)への安置葬を希望した人々がいた。

そして、これは現在の日本では、特殊な場合でない限り死者は火葬されるため、忘れられがちであるが、そもそも日本は歴史的に見れば、火葬が非一般的であった時代の方が、圧倒的に長いのである。

そうなると気になるのが、遺体が白骨化するのを、少しでも遅らせようとする発想は、日本では育たなかったのか、ということである。

一般的には、そうした、遺体を積極的に保存しようとする発想は、日本では高温多湿な気候もあり、育たなかったといわれている。現に、前近代には「外国」であった沖縄文化圏も含めて、日本列島の多くの地域では、遺体が白骨化した時が、その死者が無事成仏(ここでは、死者が死後の世界での永遠の命を得ること)した時であると信じられていた。つまり、むしろできるだけ早く白骨化するのが、良いとみなされたふしがあるのだ。

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しかしながら、岩手県の中尊寺金色堂は、平安末期の東北を統治した奥州藤原氏の当主たちの遺体が、ミイラ化して安置されていることで有名である。また、中世後期〜近世に、一部の僧侶たちが、即身仏というミイラになった例もあり、そうした即身仏は、今でも人々の信仰を集めている。

だが、奥州藤原氏の当主たちの遺体がミイラ化したのは、内臓を摘出するなどの、何らかの積極的な保存措置を施したからなのかは、よくわかってはいない。即身仏となった僧侶の場合も、死の直前までの過酷な禁欲修行により、脂肪を極限まで落とすことで遺体の腐敗を防いだのであり、いわゆる遺体の保存措置によってミイラとなったわけではない。

それから、土葬された遺体が白骨化せずミイラ化して出土するケースが、例えば古い墓の改葬を行なったり、史跡を発掘調査したりした際などに、時々ある。これも、矢張り様々な条件が重なり、偶然にミイラ化したものである。

こうしたことから、前近代の日本では、保存措置で遺体をミイラ化させる技術は、育たなかったと考えられている。しかし実は、鎌倉時代の初めに、遺体をミイラにする技術を持つ人物がいた可能性がある。時代的にも、奥州藤原氏が鎌倉幕府軍に滅ぼされた時から、年月が余り経っていない時期である。

歌人であり、『小倉百人一首』選者としても有名な公家の藤原定家は、日記『明月記』の中に、簡単にいうと以下のような内容の記録を残している。1207年に、伊予国(現在の愛媛県)の「天竺冠者」が、トリックを使って偽の奇跡を起こしていたが、捕らえられ京都に連行された。朝廷の最高権力者であった後鳥羽上皇が自分の前で奇跡を実演させたところ、トリックが使えず不正が発覚し、投獄された、というものである。

この天竺冠者が、実は人の遺体をミイラにする技術を持っていた、ともいわれている。「天竺冠者事件」は、『明月記』よりも若干後の鎌倉時代中期に書かれた『古今著聞集』にも記録されているが、こちらはより「詳しい(あるいは、創作が加わって大げさになった)」内容である。

『古今著聞集』の語るところによれば、天竺冠者は元博奕打ちで、「伊予のある島」の者であった。トリックによって様々な偽の奇跡を起こしていたが、その中に、「その頃亡くなった彼の母の遺体をミイラ化させ、“ご神体”として祀った」というのもある。「遺体の内臓を除いたうえで乾燥させ、表面に漆を塗って、祠の中に安置した」と、ミイラ化の流れも極めて具体的に書かれている。

「天竺冠者事件」は、どこまで史実であったかはわかっておらず、このミイラ作りの技術も、「うさんくさいインチキ奇跡」の一つとして、マイナスな文脈で語られている。しかし、これは奥州藤原氏のミイラと極めて近い時代のケースでもあり、今後の科学的な研究が期待される案件ではないだろうか。

酒井正子『奄美・沖縄哭きうたの民族誌』小学館、2005
井上亮『天皇と葬儀 日本人の死生観』新潮選書、2013
林屋辰三郎編集代表『民衆生活の日本史・火』思文閣出版、1996
本郷恵子『怪しいものたちの中世』角川選書、2015

(寄稿)せっぱつまりこ

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