海上の身元不明の死者を「福の神」として祀る習俗について

前近代の日本列島の幾つかの地域では、特に汽水域で溺死者やそれらしい遺体が発見された場合、沖へ突き流してしまうことがしばしばあり、中には江戸時代の江戸市中のようにそのように法律で決められている場合さえあった。
この法や慣習の存在を裏付けるような古記録や川柳や戯作も、幾つか残っている。

このルールには、前近代日本の特に庶民層では例え肉親とはいえ、故人の遺体・遺骨へのこだわりが現代に比べ圧倒的に少なかったこと(そして自分自身が亡くなったらどうするかという視点でも、遺体や遺骨に執着する傾向は少なかった)や、一種の水葬としての側面など、時代的信仰的な背景があったのである。

一方、そうした溺死者やそれらしい遺体が、積極的に回収され埋葬される文化も、往時の日本列島には存在したし、今も存在している。この文化には、大きく分けて2種類の系統があった。

1つは、同じ村や町に住む人々の誰かが水死した(あるいは、その可能性がある)場合、彼あるいは彼女の遺体を、何としても見つけ出そうとするケースであった。
例えば、現在の長野県にある諏訪湖の周辺のケースがある。
この地域では江戸時代に、村人の誰かが諏訪湖で水死した恐れがある場合、ニワトリを使った搜索が行われた。
この時代、ニワトリは人の遺体のある場所を察知して鳴くという俗信があったためである。

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もう1つは、身元不明の溺死者やそれらしい遺体が、一種の「福の神」としての信仰の対象になったために、積極的な回収・埋葬が行われた例である。そうした例は、主として、漁業が盛んな海沿いの地域にみられる。

例えば、長崎県の壱岐島の勝本浦という地域の漁民には、海上に漂う遺体を「おえべっさん」と呼び、航行中に遭遇した場合、必ず回収するしきたりがある。
海上の遺体を拾わないと祟りがあるため、止むを得ず拾うというような態度ではない。祟り云々は関係なく、拾い上げるのが常識である、というような姿勢である。

遺体を見つけても、それを凝視することはタブーとされる。苫(いわゆる「ムシロ」の類。現在ではビニールシート)を船上から投げ、なるべく見ないようにして拾い上げる。更にいえば、近代に入る前は、そうして回収したおえべっさんは、極力他の人に知られないよう、密かに勝本湾の周囲の小島に運んで葬ったという。
現代では、警察署に届け出た後、一定の期間が経っても身元不明のままであった場合は、近隣の寺に「無縁仏(ここでは、身元不明の死者)」として葬る。

身元不明のおえべっさんを葬った後も、発見者は正月と盆には、自分の先祖と同じように祭祀を行う。地域全体でも、年に一度、海上で発見された身元不明の死者を供養する行事を行う。

なお、壱岐島の他の地域である「郷ノ浦」でも、同じように海上の遺体を積極的に回収し、葬る習慣がある。
かつては、そうした海上の身元不明の死者を葬る場合、県道の道端を「みなし墓地」として、そこに葬るしきたりがあった。このような海上の死者(の墓)は「道福えびす」と呼ばれ、歯痛を治す霊験があるとされる。

こうした習俗で筆者が思い出すのは、民話や伝説で時々みられる、放浪する身元不明の旅人(またはそれに類する人物)の遺体が、金銀財宝に変化し、彼あるいは彼女の遺体を引き取った人物を富ませるというストーリーである。

壱岐島で信仰を集める海上の死者は、「水上で発見された身元不明の死者」だから「福の神」なのか、「身元不明の死者」だから「福の神」なのかは、正確には不明である。
ただ、この種のストーリーを念頭に置くと、この壱岐島の海上の死者信仰は、後者の考え方に由来する可能性も、ありそうである。

新谷尚紀『ケガレからカミへ【新装版】』岩田書院、1997
高橋昌明『酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化』中公新書、1992

(寄稿)せっぱつまりこ

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