前近代日本でも、死者の遺体の積極的保存が行われた可能性がある

平安時代、天皇や高位の貴族が亡くなった際には、遺体は火葬されることが多かった。しかし、彼らの中にも、火葬を拒否し、土葬あるいは葬祭殿(御霊屋)への安置葬を希望した人々がいた。

そして、これは現在の日本では、特殊な場合でない限り死者は火葬されるため、忘れられがちであるが、そもそも日本は歴史的に見れば、火葬が非一般的であった時代の方が、圧倒的に長いのである。
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海上の身元不明の死者を「福の神」として祀る習俗について

前近代の日本列島の幾つかの地域では、特に汽水域で溺死者やそれらしい遺体が発見された場合、沖へ突き流してしまうことがしばしばあり、中には江戸時代の江戸市中のようにそのように法律で決められている場合さえあった。
この法や慣習の存在を裏付けるような古記録や川柳や戯作も、幾つか残っている。
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タブー視された、偶然出土した過去の時代の遺骨

清朝末期の大衆向け絵入り新聞『点石斎画報』の中に、興味深い記事がある。

それは、江蘇省にあった陶磁器の産地「趙家窯」で、古代の貴人のものらしい墓が、偶然3基見つかったという記事である。

趙家窯のとある窯業従事者が、資材である粘土を掘っているうちに、偶然3基のレンガ造りの古代の墓を見つけた。そこからは大量の古銭や刀銭(古代中国のコインの一種。刀の形をしている)、宝石で作られた鏡、銅鏡、宝剣、様々な陶器が発見された。そして骨董鑑定家によって、これらは皆、秦王朝や漢王朝以前のものであるらしいとわかった。
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徳川将軍家も一種の「両墓制」と思われるしきたりを持っていた

仙台藩を築き、江戸時代の終わりまでそこを統治した大名の伊達家には、18世紀初頭に「時代遅れであり無益」とされて廃止されるまで、藩主や藩主夫人が亡くなった際「灰塚」を築くしきたりがあった。
この「灰塚」は、藩主・藩主夫人の棺を焼いた際の灰を埋めた塚である。彼らが死去した折、葬儀が行われる前に遺体や遺骨を埋葬してしまい、遺体(あるいは遺骨)の入っていない棺のみで葬儀を執り行うことが一般的であった。
仙台市内に現存する灰塚としては、筆者の知る限りでは初代藩主政宗と彼の母保春院のものがある。
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「塔婆山」と死者の魂のゆくえ

日本も含めて世界各地には、人がみだりに入ったり、木を切ったり動物を狩ったりなどすると、祟りがあるという言い伝えがあった山岳・丘陵(以下「山や丘」)がある。中でも日本にある、そうした立ち入りその他をタブーとした山や丘の中には、時々、葬儀文化史から見ても興味深い伝説が、伝わる場所もある。
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江戸時代の諏訪湖で水死者が積極的に回収された背景

江戸時代の江戸市内では、水上、特に淡水と海水の境目に浮かぶ遺体が発見された場合、基本的に「沖へ突き流してしまうこと」と決められていた。
これは一見残酷な印象を受けるが、当時の法律上・衛生上・宗教上の複合的理由による決まりであった。
一方、地方によっては、そうした水上の遺体が江戸よりも熱心に回収される地域もあった。
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